大東亜学術協会の雑誌「学海」―学徒動員と学問の間で苦悩する教師の内面【日本古書通信 編集長だより18】
先日の東京古書会館の即売会で、秋田屋刊行の雑誌「学海」とその改題誌「学芸」13冊を購入した。昭和19年6月から昭和22年11月までのものだった。出版困難期の戦時中から終戦後まで大阪で出された文化総合誌である。ざっと中を見て京都大学、第三高等学校の教授助教授を主な執筆者とする雑誌であることは分かったが、購入の一番の理由は、後に秋田屋と筑摩書房から刊行された、吉川幸次郎と大山定一の『洛中書簡』が連載され、この雑誌が初出であることを知ったことと、以前から興味を持って著書を集めていた土井虎賀寿が常連執筆者であることだった。
後から気がついたのだが、本誌に全国各地の文学館探訪記を執筆されている田坂憲二慶応大学教授(源氏物語が専門)が、『文学・言語』217号(全国大学国語国文学会編・2016・12)に寄稿した「書物を紡ぐ人々―吉井勇『流離抄』を中心に」で、戦時中に吉井が短歌を寄稿した雑誌として「学海」にも言及されている。また、京都大学人文科学研究所の菊地暁氏のブログ「人文研探検―新京都学派の履歴書」でも、考古学者・水野清一との関係で「学海」「学芸」を取り上げている。調べた限りでは、「学海」「学芸」を全巻所蔵する大学図書館は少なく、京都女子大学図書館だけのようだ。戦時中から終戦直後の刊行ゆえ揃えるのが困難だからだろうか。
菊地氏よれば、「学海」の誌歴は以下の通りだ。
「ひのもと」(大東亜学術協会・ひのもと社)昭和17年12月(5巻11号)~18年5月(6巻5号)
「ひのもと」(大東亜学術協会・大和書院)昭和18年7月(1巻1号)
「学芸」(大東亜学術協会・大和書院)昭和18年7月(1巻2号)~19年5月(2巻5号)
「学海」(大東亜学術協会・秋田屋)昭和19年6月(1巻1号)~20年6月(2巻6号)
「学海」(東方学術協会・秋田屋)昭和20年7・8月号~22年5月号(4巻5号)
「学芸」(東方学術協会・秋田屋)昭和22年7月(4巻6号)~23年9・10月(5巻6号)
最初の「ひのもと」が5巻11号からなのは、当時の出版統制の影響で、新雑誌の創刊は許されず、ひのもと社の休刊中の雑誌の権利を譲りうけたからだ。元がどんな雑誌であったのかは分からない。ともかくも、現在の京都大学人文科学研究所の前身である東方文化研究所などと深く関係した人々によって編集された雑誌だったわけである。以下も菊地氏のブログからの引用である。
大東亜学術協会は、1942年夏、「大東亜共栄圏の風土、民族、文化を学術的に調査研究し、以て大東亜文化建設に寄与」することを目的に設立されたもので、会長には新村出(京大名誉教授、言語学)、松本文三郎(東方文化研究所長、インド学者)、羽田亨(京大総長、東洋史学者)、西田直三郎(京大教授、日本史学者)を迎え、そのほか、「京都帝大の東洋諸学の中堅学者に東方文化研究所の人々」を委員とした、あたかも、東方文化研究所を中心に京都の人文学者を総動員したような団体である。敗戦後は「東方学術協会」に名称変更し、少なくとも1948年まで活動したことが確認できる」(人文研探検11、中国大陸と水野清一「新しい歴史学」としての考古学とミンゾク学、その2)
「学海」第一巻一号と二号の目次を上げてみよう。
一号(昭和19年6月)
大東亜暦法の課題 熊田忠亮
花頭曲線の文化 村田治郎
如意宝珠 村山修一
湖南自伝・幼少期の回顧(上)内藤湖南
地中海・イタリア 室田正利
学問の道 松村克己
神々の誕生と象徴の真実性(1)土井虎賀寿
独逸的形姿の可能性(上)外村完二
夢愴然(歌) 吉井勇
リルケの手紙 谷友幸訳
洛中書簡(1)吉川幸次郎・大山定一
二号(昭和19年7月)※一号掲載の続編は省略
神々の統治 島芳夫
学徒勤労(歌) 高安国世
愛餅の説 青木正児
食事に関する言葉の二三 頴原退蔵
括弧の効用 宮崎市定
民族雑陳・麺魚 水野清一
日本人町と徳川の鎖国政策 矢野仁一
以下、戦時中刊行の手持ちの五冊から、注目される記事を列挙すれば、「戦争と自然」(湯川秀樹・一巻六号)学徒勤労に於ける詩と真実(土井虎賀寿・同)水滸伝雑記(中村幸彦・同)戦力の根源(原隨園・二巻一号)硝子窓(湯川秀樹・同)木賊の庭(吉井勇・同)芭蕉研究1(頴原・吉川・大山・吉井・土井・西谷啓治・遠藤嘉基・小川茂樹)勤労動員学徒をめぐる根本問題(井上智勇・二巻二号)冨士講と二宮尊徳(下程勇吉・同)飛行機雲(湯川秀樹・同)芸術について・ハウプトマン(田川基三訳・同)無隣庵のこと(高田保馬・同)など。
一億総玉砕の叫ばれた戦時末期にあってこれだけの文化的水準を維持できた雑誌は多くはないだろう。しかし、上に列挙した記事を見ても、教師として、学徒勤労動員と学問研究という本来は相容れない問題を如何に自分に納得させるか大きなテーマになっていたことが分かり、重圧の中での苦しい心情も反映している。当時、第三高校のドイツ文学者教授にして歌人でもあった高安国世の「学徒勤労」の短歌10首から3首を引く。
一つ国の命をかけし物音のとどろと聞けばかなしきまでに
熔接の炎は白き紫にひらめくところ我が生徒居り
熔接に眼いためし生徒ひとり駅の水道に眼を洗ひ居り
同じく三高の哲学教授土井虎賀寿の「学徒勤労に於ける詩と真実」は、戦後に刊行された『生の祈願と否定の精神』(八雲書店・昭和23)に収められた。12編の内これのみ戦時中の発表の文章である。土井が学徒勤労の監督官として生徒に帯同していたおり、非常に成績優秀だが、勉強の時間を得るために作業を嫌う傾向があるとして、最下評価を受けていた生徒がいた。かれは仲間からも孤立している。しかし土井はその生徒の慎ましい恥じらいの姿に魅せられ、勤労の中にも高い精神性を維持することが大切であることを再確認していく。そして斯くの如く書いている。
作業と学問とを対立する二つの分量の如く考へて作業強化には自習時間の短縮を当然として、自習を重視することは直ちに作業低下を意味するかの如き考へ方が支配的である。併し学問といふものはけしてそのやうに作業と対立し作業と同列なものではなくて、作業の背後に位置して作業の積極的な心構へを理性的に築き上げ―かくて作業能率を最大限に高めらせる使命と実力を持つた精神力である。自習時間学習時間の活用によつて確実な信念と動かざる情熱が用意される時に始めて学徒勤労の実質が成り立つ。(略)精神的に高き存在は不当な圧迫で歪められる時必至的に水準以下に落下する。この落差は正に精神の高さに正比例する。
論理的に美しい主張だけれども、現実にはどれほどの意味も持たなかったに違いない。強制的な労働を自発的な労働に意識転換させる苦しまぎれの論理にしか読めないが、何とか自分を納得させようとする土井の心情は強く伝わってくる。件の生徒は戦後どのような生活をしたのだろう。
第一巻一号に「学問の道」を書いた村松克己京都大学助教授はキリスト教神学者である。戦後刊行の第二巻八号(20年12月)には「全体主義とデモクラシーー知識層の任務」を寄稿している。前者は日本特有の道としての学問と、客観性実証性を重んじる西洋の学を比較しなら、学問する側の主体性の問題を論じる。後者は20年9月6日という終戦直後の論文だが、デモクラシーを保証する権威は超越的な存在としての神もしくは理念であり、戦勝国の提唱する個人主義は「デモクラシーの生んだ奇形児乃至は脱落せる形態」である。日本においては、近代の政治軍部指導者による誤れる方向を否定し、明治維新期の神聖なる天皇による「五か条の御誓文」の精神に立ち返れば、真実のデモクラシーの実現は可能であるという論旨である。神がかりな論調ではなく、非常に真摯な姿勢の論文で、事の成否は別として、敗戦を機に思想豹変した人たちの論よりもかえって好感が持てる。明治に生まれ育った日本人の当時の正直な感覚を反映しているように思う。村松は、昭和21年GHQにより休職させられている。著作の超国家的ないし軍国主義的傾向によって追放された京大の教員は、西谷啓治、鈴木成高と共に三名だった。
「学海」は全体として高尚な雑誌であるけれども、以上のように、戦時体制の中での知識人たちの苦汁も垣間見られる。戦中から終戦後までその意識の変化がみられる点でも注目される雑誌である。
「学海」に関しては他にも書いておきたいことが多いが、長くなったので今回はここまでとする。
追記
2020年10月1日の資料会で大東亜学術協会発行の雑誌『學藝』第一巻二号から二巻五号(昭和18年7月~19年5月)と、『學海』の揃い(創刊~第四巻五号)を落札した。大東亜學術協会の雑誌『學藝』第一巻二号に「『ひのもと』新第一巻は今月号より表記の如く『學藝』と改題しました。」という断りがある。昭和18年7月号『ひのもと』(大和書院)が大和書院刊行に代わり『學藝』となったのだ。「編集長だより18」アップの折、上記の如く菊地暁さんのブログから誌歴一覧を引用させて頂いたが、『學藝』第一巻二号~二巻五号を抜かしてしまったことに気づきました。「日本古書通信」2017年7月号掲載分には訂正されています。この欄でも訂正させていただきました。