• twitter
  • facebook
古書通信

明治末期の「北米俳壇の沿革」【日本古書通信 編集長だより15】


「日本古書通信」3月号に「明治期の渡米案内書について」を執筆した。昨今話題となっている、アメリカの移民問題に因んで急遽書いたものだが、その後も、関連の文献が目に付く。今回紹介するのは、明治末期アメリカ日系人社会の俳句について書かれた文献である。
昨年7月20日、私はツイッター(古書通信編集部@)で、埼玉の俳句雑誌「アラレ」第7巻3号(明治43年3月)を紹介した。古書即売会で1冊だけ手に入れたのものだが、特集が「雪中富士登山」で全160頁の内100頁を占める俳句雑誌としては異例のものだった。ところが先日、古い俳句雑誌の山を古書市場で落札すると、その中に前記の「アラレ」前後の号が8冊入っていたのである。明治43年分の表紙は色違いの同じデザインだ。


今回取り上げるのは第7巻4号(明治43年4月)で、巻頭に大塚退歩という人物が「北米俳壇の沿革(中)」を寄稿している。4号が(中)だから、前記の「雪中富士登山」3号に(上)があるはずだが無い。今回入手の中に第7巻2号と、(下)が掲載されているだろう5号は無かった。幸い神奈川近代文学館に所蔵されていたので、2号と5号の「北米俳壇の沿革」上下のコピーを入手することが出来た。また、今回同時に入手した第7巻6、7合併号(明治43年6月)が最終号であることも確認出来た。雑誌そのものには終刊の記載はなかった。7年間の誌命だったことになるが、明治末期のアメリカにおける俳句状況を伝える文献は少ない筈で、「雪中富士登山」の記録も含め資料的には注目されて良いだろう。
件の大塚退歩という人物は初めて聞く名前で、『現代俳句大事典』(明治書院)などにも立項されていない。本誌3月号拙文でも紹介した『移民ビブリオグラフィー』(神繁司編)の人名索引にも無い。「北米俳壇の沿革」を読む限りでは、埼玉出身で、明治37年に当時アメリカで発行されていた日本語新聞『新世界』に入社したようだ。そこで退歩は「北米俳壇の開拓者」藤井天彩に出会う。天彩も埼玉の出身で退歩に俳句を勧めた。やがて廣瀬柴舟(後に践楼)、村山白羊、西條木兆などが集まり大呂会と称してサンフランシスコで句会を開くようになった。大呂会は新派を自認したというが、月並みに対する新派で、正岡子規の主張を汲むという意味だろう。それまでは、梅田食山人が月並み俳句を『新世界』に、田村松魚が新聞『日米』に秋声派(秋声会・角田竹冷、岡野知十、尾崎紅葉、伊藤松宇など)の俳句を盛んに掲載していたようだ。松魚は露伴に師事した作家で、明治36年から42年までアメリカ留学、後に田村俊子と結婚したが離婚した。松魚に宛てた高村光太郎の書簡60通余が数年前に発見され笠間書院から刊行されている。また、本郷の文生書院が電子復刻版で松魚の著書『北米の花』『北米世俗観』を刊行している。最近注目されているが、退歩の松魚に対する評価は厳しい。
退歩は、廣瀬柴舟が寝起きしていた日本福音会に『子規随筆』や『獺祭書屋俳話』があり読んだとある。また、漱石の『漾虚集』『吾輩ハ猫デアル』なども日本での発売にそれほどの間をおかずに陸続と入ってきていたとも書いている。日比嘉高氏が『日本文学』617号(2004)に「日系アメリカ移民一世の新聞と文学」という論文を寄稿されており、『新世界』と日系人による文学活動に触れて、その中で小野五車堂によって日本国内の新聞や雑誌の定期購読や、書籍購入が容易であったとしている。この五車堂は後に神保町に支店を出しているが、そこに少雨叟斎藤昌三が務めていたことは、故八木福次郎が『書痴斎藤昌三と書物展望社』(平凡社)で詳しく触れている。
大呂会にはその後も、後に加州(カナダ)第一流の俳人となった武田関左や官召郎(始めは詩声)、元島明々、武石天郊なども参加するようになったとある。アメリカから『ホトトギス』などにも投句していたようだが、これらの俳人の事跡は今では殆ど分からないだろう。
退歩は、しばらくして『新世界』を去り、大呂会も自然消滅した。それまでの大呂会での俳句は『新世界』に掲載されたと想像される。前記日比嘉高氏の論文によれば、伊藤一男著『北米百年桜』正続(シアトル・北米百年桜実行員会・1969~72)に多くの俳句や短歌作品が紹介されているようだ。
退社後の退歩は農園で仕事をしながら俳句の勉強をしていたが、藤井天彩が『新世界』をやめて『桑港新聞』を創刊し、退歩もフレースノで支社主任となる。ここで従来のメンバーに加え原田凡午、三枝三梨などが加わって、『桑港新聞』の俳句欄は賑わった。凡午は後にオークランドで六雨会を起こして俳誌『鷗埠』を発行したが短命で終わった。退歩は再び『桑港新聞』本社に戻り、句会も再開、そこでもまた新たな俳人たちが加わることになる。
つまり、当時のアメリカ日系人社会での俳句活動は、『新世界』や『桑港新聞』紙上を中心に、ほぼ日本での俳壇の動きと連動しながら盛んにおこなわれていたと見てよいようだ。
退歩も、日比嘉高氏も書いているが、当初はアメリカにあっても日本の風情を俳句にした作風が多かったが、徐々にアメリカの風土を読み込んだものが作られるようにもなり、日本にいては分からないようなカタカナ表記の言葉が入った作品は、『ホトトギス』などでも入選しやすかったらしい。例えば

  タマルバイスの風見櫓や青嵐  天彩

タマルバイスはサンフランシスコ郊外の山の名前とのことだ。
以下、退歩が文中に載せた俳句を紹介する。

柿一つ梢に赤し小六月     小蘇
若草や北に山追ふ温泉の小村  詩声
水馬虫而して後ち流れけり   明々
トイレット水の音して明け易き 退歩
人影の動く橋下を投網かな   退歩
月前に蒔絵の櫛を網しけり   退歩
豚飼ふも冬木が中の車站かな  関左
江山の花を孕んで諸子かな   関左
花林檎雨に倒れし梯子かな   退歩
雄鶏の雌鶏呼ぶや春の雨    退歩
短夜の明けて行くテントテントかな 凡午
(サンフランシスコ地震に際しての句)
一桶の鮓につどうや李家張家  関左
(上に同じ)
談論の風を生じて木下闇    明々
茨の上神髣髴とおはしけり   明々
川蝉や水急にして洲の柳    退歩
桃山の方に鳩啼く穂麦哉    退歩
酒売らぬ神聖町の熱さ哉    退歩
オレンジの国暖かに初日かな  官召郎
重衡は後れて着きし千鳥かな  退歩
寒菊や潔癖の人庭を掃く    退歩
恋知らぬ人はみな死ね花の酔  凡午
帯貸せと女にせまる春の宵   凡午
山焼けの煙に咽ぶ寝鳥かな   太瓜
二日灸弟は逃げてしまひけり  天彩
白梅に東坡が犢尾褌さがりけり 退歩
大蔵の句々を得し羽蟻かな   関左
県庁の見ゆる崖下の苺かな   退歩
炭で炭を打てば炭吟すらく   無法
軽舟は鮎光る瀬を下りけり   退歩
電気扇静かに眠る小供かな   夢拙
耳慣れし蝉や史眼も明らかに  退歩
海近き里の霧藻や夏木立    退歩
浮身窶す話氷を噛みつゝも   退歩
鏡いぢる夜長猿ても愚かなる  退歩
海掃除なき宮島の落葉かな   木洋
落雁の虫干すに枯魚と落葉かな 鬼睦

アメリカで詠まれた句と明らかに分かる句は殆どないし、「かな」「けり」で終わる句が非常に目立つ。日本でも新興俳句が起こり、俳句にモダニズムの動きが芽生えるのは大正末期からだから、明治末期のアメリカでの俳句としては相応のレベルの句と見て良いと思う。「かな」「けり」止めでない句の方が新しい感じがある。
なお、ネットで検索したら、「日系風土記」というブログがあり、「アメリカ俳句の可能性」という連載がヒットした。2012年のもので、それによると、ロサンゼルスに90年の歴史を誇る俳句結社「橘吟社」があり、その創立者の一人常石芝青氏が、「南加文芸」という雑誌に「北米俳壇の推移」という連載を1968年から13年間に亘り連載していたようだ。神奈川近代文学館に所蔵されているから今度読んでみることにしよう。
(樽見博)