刃傷柳の間の廊下【古記録拾い読み5】
元禄14年(1701)3月14日、江戸城松之大廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(ながのり)が、高家吉良上野介義央(よしひさ/よしなか)に切りつける事件を起こします。いわゆる「松の廊下事件」です。浅野は、即刻切腹となり、被害者である吉良はおとがめなしとされました。その後、幕府の裁定を不服とし、大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士(四十七士)による元禄15年(1702)12月14日の吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称が「忠臣蔵」です。
浅野内匠頭が切りかかった場所は、江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松の大廊下であったとされています。浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛頼照らに取り押さえられ、柳の間へと運ばれました。
今回はこの事件を、当時の5代将軍徳川綱吉のお気に入りの二人、護持院隆光の日記(『隆光僧正日記』)と側用人柳沢吉保の公用日記(『楽只堂年録』)からみてみましょう。
事件の概要
●『隆光僧正日記』元禄14年(1701)3月14日条(史料纂集古記録編 第11回配本 隆光僧正日記2所収、95頁)
今日、於殿中、今度公家衆御馳走役浅野内匠頭事、吉良上野介ニ意趣有之、大廊下切之、梶川与惣兵衛、上野介と立並罷在故、内匠頭ヲ懐キ留、上野ハ目眩倒臥、吉良上野介高家衆走付、双方へ引分、内匠頭事、今日ハ勅答と云、殿中と云、旁不届被思召、則田村右京太夫ニ御預ケ、其夜切腹、上野ハ無別儀候条、養生可仕之旨也、
これには、今日殿中において、このたびの公家衆御馳走役(勅使饗応役)浅野内匠頭が、吉良上野介に対して恨みがあり、(松の)大廊下で刃傷におよんだ。梶川与惣兵衛が、吉良上野介と立ち話をしていた時の出来事で、(梶川与惣兵衛が)浅野内匠頭を抱き留め、吉良上野介は卒倒し、高家衆が駆けつけて双方へ引分けた。浅野は、(勅使の)勅答があり、殿中という場所柄といい、不届きにつき、田村右京大夫にお預けとなり、その夜に切腹。吉良は、お構いなく養生するように、とかかれています。
事件現場はどこなのか
事件の現場は、「刃傷、松の廊下」と呼ばれ「松の大廊下」とされています。
●『楽只堂年録』元禄14年(1701)3月14日条(史料纂集古記録編 第174回配本 楽只堂年録3所収、83頁)
一、今日、勅使の御請あるべき前に、柳の間の廊下にて、浅野内匠頭長矩、内々意趣を挟むによりて、小さ刀をぬきて、吉良上野介義央をうしろより二刀きる、浅手なれども、老人なれば、倒れぬ、御留主居番、梶川与三兵衛頼照、側に在て、長矩を組留て刀を奪取る、田村右京大夫建顕に御預けにて、今夜、彼宅にて切腹を仰付けらる、検使は、庄田下総守宗利、并に御目付両人参る、上野介義央は、療治して癒たり、
これによれば、事件は「柳の間の廊下」にて起こったとあります。また、赤穂事件に関する資料を集めた一番古い記録である「易水連袂録」によると、「柳の間」から、「松之廊下」と呼ばれる「大廊下」を経て、「医師溜」に至るあたりで事件が起きたとされています。実は、事件現場が「柳の間の廊下」としているのは、『楽只堂年録』と「易水連袂録」の二つの史料だけです。
「柳の間」は、江戸城本丸殿中の居間で、大広間と白書院との間にある中庭の東側にあり、四位以下の大名および表高家の詰め所です。 襖に雪と柳の絵があったところから、その名がつけられました。7万石以下で五位の官位を持つ外様大名や、大広間詰の外様大名の分家・表高家などの詰所でした。浅野内匠頭は外様大名の分家で、その位階は、「従五位下」です。また、吉良上野介は高家衆ですから、二人の伺候席(控席)は、「柳の間」でしょう。位置的には、中庭を挟んで「松の廊下」の反対側になります。「松の大廊下」は、映画やドラマでは板張りですが、実際は畳敷きであったそうです。
事件の結末
●『楽只堂年録』元禄15年(1702)12月15日条(史料纂集古記録編 第176回配本 楽只堂年録4所収、61~62頁)
一、昨夜、故の浅野内匠頭長矩が家臣、四十六人、吉良上野介義央か宅に推し入て、
義央を殺す、其君長矩か志を継くとなり、泉嶽〔岳〕寺は、長矩か墓のある所なれば、翌朝、此寺まて立のきて、御仕置を待てり、然るに仰有て、四十六人を仙石伯耆守久尚か宅に召して、鈴木源五右衛門重倫・水野小左衛門守美列座にて、細川越中守綱利・松平隠岐守定通・毛利甲斐守綱元・水野監物忠之に御預けにて、御仕置を待たしめたまふ、(以下大石内蔵助良雄ほか45名の姓名と預け先の家名が列記)
これには、12月14日夜に、浅野内匠頭の旧臣46人が吉良上野介の屋敷に討ち入り、上野介を討取った。翌朝、主君の菩提寺である泉岳寺に退き、仕置きを待って、細川家はじめ4家にお預けになったことが記されています。仙石久尚は幕府大目付であり、鈴木重倫・水野守美の両名は幕府目付の職にありました。
実際の現場は、どこだったのでしょう。柳の間詰の内匠頭と上野介が、部屋で口論となり、柳の間の廊下に出た上野介を内匠頭が「松の大廊下」まで追っていったのでしょうか。これに関しては、未だに諸説あっていずれも状況証拠です。今回は「柳の間の廊下」説の根拠の一つとされる史料を紹介いたしました。 (出版部・M)
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本コラムでは、古記録を読むことで浮かび上がる様々なモノ・コトを、八木書店の史料纂集担当編集者Mが紹介します。