実益雑誌『力之日本』―甲賀三郎「毒殺の話」と「警視庁特高課長毛利基氏」【日本古書通信 編集長だより14】
古書市場で二束の雑誌を落札した。その中に大正末から昭和12年にかけて出された経済雑誌が含まれていた。経済雑誌というよりは実業、金儲け雑誌という方が適切である。一つは後に明治大学商学部教授となる井関十二郎が主幹・社長を務めていた『実業界』(明治43年創刊)。これは宣伝や広告などの専門誌で、この分野では早期のものではないだろうか。もう一つ紹介したいのは、小笠原長信という人物が昭和10年に創刊した『力之日本』(力之日本社)という雑誌だ。小笠原長信は初めて聞く名前だが、『岡辰押切帳』『岡辰大福帳』などの著者谷孫六、大正10年に『商店界』を創刊した清水正巳(商店経営法の権威とのこと)や『国民新聞』主筆の長谷川光太郎などをブレーンとしている。いつまで刊行されたか、国会図書館や大学図書館にも所蔵されていないので分からない。入手したのは昭和10年11月号から11年12月号までの8冊である。「人生何時が一番楽しいか」(帆足理一郎)「愛児殺しを精神分析する」(大槻憲二)「女性の誘惑に悩む青年に與ふ」(青柳有美)「二・二六事件は我が経済界に如何なる影響を齎すか」(藤山愛一郎)「東京オリムピツクで大儲けする工夫・五十種」(増田行夫)「銀幕スターの金作り競争」(銀間久人)など興味深い記事が多いが、株屋さんが出した雑誌で長く続いたとは思えない。しかし、執筆者の顔写真を多用するなど読者を掴む術も心得ているし誌面にも勢いはある。そんな雑誌だが、今回取り上げたいのは昭和11年正月の拡大記念特輯号に掲載された、甲賀三郎の「毒殺の話」と「警視庁特高課長毛利基氏」という二つの記事だ。金儲けの雑誌にふさわしくない記事だが、あまり例を見ない内容で面白い。
先日もクアラルンプール空港で北朝鮮の金正男氏が映画かテレビドラマのように毒殺されるという事件があったが、甲賀三郎の記事は当時浅草の喫茶店で起きた校長毒殺事件に寄せたエッセイである。この事件、ネットで検索したら犯人と被害者も実名で出ていた。昭和10年11月21日、浅草区柳北小学校校長増子菊善氏(48歳)が、学校に出入りしていた足袋屋の若主人鵜野洲武義(27歳)に、浅草雷門の明治製菓喫茶部に呼び出され、青酸カリを混入した紅茶で殺害された。犯人は校長が持っていた職員の給与3300円あまりを強奪逃走、犯人は千束の待合ですぐ逮捕されたが、日本で最初に青酸カリを使った毒殺事件として知られている。甲賀は英国の毒殺鬼ウイリアム・パーカーと比較し浅草の犯人は「及ばざること遠し」と書いている。計画的犯罪であるが殺人方法は「直接短刀か、ピストルでやったとの少しの違いもない」というのだ。勿論パーカーを尊敬しているわけではないが、30年の生涯に、妻、妻の母、実子、私生児3人、弟、友人など10数名を保険金をかけて毒殺し、表面紳士として生活するという異常性に探偵作家として強い興味を持ったのだろう。甲賀は殺人用の毒薬として亜ヒ酸が無味無臭の理由で使われることが多いが、これは化学検査ですぐ判明するので「愚人の毒」と言われる。パーカーは極少量で死ぬストリキニーネを使った。浅草の犯人が使用した青酸カリは酸味と臭いが強く自殺用にはなっても他殺には不向きだが、被害者の校長は相手を信頼して飲んだのだろうと書いている。甲賀は「探偵小説では余り毒殺を取扱はないやうだといふのは、常識的に毒殺は親しい間柄でなくては出来ないし、その場に居合せなければ出来ないし、謎としての深みが足りないからだ」と書く。さらに、江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」で、犯人が天井の節穴から毒液を垂らすとあるがこれは絶対に不可能だと度々指摘してきたが、探偵小説家が毒殺を扱う時に、一捻りした書き方をするのは、毒殺には神秘性が少ないので、いつどこで誰が毒を与えたか容易に分からぬようにするためだとも書いている。
現在、こんなエッセイを書いたらかなり顰蹙ものだと思うが、当時は、のんびりした時代だったのか、それとも昭和初期いわゆるエログロナンセンスの流行る殺伐とした時代だったのだろうか。
もう一つの注目すべき記事は、「一巡査から叩き上げて・思想警察界のピカ一となつた 毛利特高課長・出世録」だ。利根登執筆の記事だが、次のように始まる。「我が国における左翼運動を語り、共産党を談ずる者は、警視庁特高課の指揮官たる毛利基氏を知らぬものはないであらう。彼は三・一五、四・一六、田中清玄一派の検挙を初め、十月共産党事件、リンチ共産党事件等々の大検挙には、常に中監となり、或は指揮官として、非合法陣営の攻撃に当り、左翼陣営をして今日の如く、起つ能はざる迄に、打ちのめしたところの、我が国左翼運動史上、どうしても彼を抹殺することが出来ない存在である」と。そして毛利の交番勤務から警視まで、ノンキャリアとしては最高の地位までのぼりつめた生い立ち、経歴、人柄に話は及んでいく。
この記事に、昭和三年の共産党員大検挙として有名な三・一五事件に際し、毛利が山形県五色温泉で開かれた第二次共産党創立大会を単身内偵していたことが触れられている。ここには書かれていないが、毛利の勲功の裏には共産党内部にもぐり込ませたスパイの活動がある。1980年に徳間書店から刊行された『スパイM謀略の極限を生きた男』(小林俊一・鈴木隆一著・1994年文春文庫)という本がある。ウィッキぺディアでもある程度触れられているが、実のところこの種の詳しい真相は分からないのだろう。かつて本誌に俳優座の松本克平さんが「漁書余録」を連載されたが、1932年10月に起きた共産党員による「大森銀行ギャング事件」の関連で逮捕された経験から、スパイM(通称松村・本名飯塚)に対して強い関心を抱かれていた。スパイが仕組んだ事件だから犯人はすぐに逮捕され、自供によって克平さんが犯人たちにメイキャップなど変装の仕方を教えていたことがばれて逮捕された。克平さんは、当時、日本プロレタリア演劇同盟東京支部組織員で、犯人たちが演劇をやりたいからということで、銀行強盗のためとは知らず指導した。逮捕され新聞やラジオに実名が出たため大変な思いをしたようだ。平成2年10月、11月号「漁書余録」8、9に詳しく書かれている。克平さんを取り調べたのは中川茂夫という特高係長だった。克平さんは、スパイMについては、松本清張の『昭和史発掘』第五巻収録の「スパイの謀略」、また当時のプロレタリア演劇がMの工作によって衰退していく過程は、三一書房の『運動史研究』第三巻収録の「資料・生江賢次予審尋問調書第三回~八回」に詳しいと書いている。
ともかく、この記事は、図版にあげたように、当時現役の特高課長である毛利の写真入りである。三つ揃いのスーツにちょび髭、丸眼鏡、当時の新聞記者から「毛利は社会主義者」だ、労働者や農民、下層階級には同情心厚いと言われたという一見朴訥な風貌である。まさに小説にでも出てくるような硬軟両面もつ特高課長だったのだろう。この記事ではヒーローそのものである。しかし、毛利は左翼ばかりでなく、神兵隊事件や埼玉挺身隊事件など極右運動の捜査でも手腕を発揮したらしい。恨みもかっていたろうし、いわゆる顔が割れても支障なかったのだろうか。
(樽見博)