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古記録拾い読み

茶聖・千利休の妻女を蛇責めする石田三成【古記録拾い読み3】

蛇責めの刑は、古代中国の暴君として知られる殷の紂王が考案した残酷な刑の一つで、樽の中に罪人と一緒に多数の蛇を入れて蓋をするという刑です。この樽に酒を入れると、蛇はさらに暴れるという残忍なもののようです。

江戸中期に著された『絵本太閤記』には、「千利休の妻女が石田三成によって蛇責めの刑に処せられた」と記され、豊臣秀吉が利休の妻子に対してこの刑を行ったという話が出てきます。

天正19年(1591)2月13日に、当時豊臣政権下で絶大な権力を誇ったとされる千利休が、突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられます。そして、同月28日、利休は秀吉からの命令により切腹をするのです。彼が切腹してから10日後に、この事件は起きます。

『兼見卿記』天正19年(1591)3月8日条(史料纂集古記録編 第178回配本所収、143頁)には、

左京助自京都罷帰云、今日宗易女・同息女、於石田治部少輔強問、蛇責仕之由其沙汰也、母当座ニ絶死、次息女同前云々、但不慥、

鈴鹿左京助(吉田神社の神人)が京都より罷帰って云うことには…今日、千利休室・利久の娘が、石田三成の所で拷問された。蛇責めにかけられ、母はすぐに死亡し、次に娘も亡くなったという。但し慥かではない。

とあり、「利休の室と娘が、石田三成に蛇責めの拷問を受けて絶命したらしいが慥かならず」と、不確定の噂として記録されています。当時、実際に洛中では、そうした噂が取り沙汰されていたことは事実なのでしょう。これは豊臣秀吉のためなら、三成が利休の家族を厳しく取り調べていたことと、蛇責めのような残酷な拷問をやりかねない男だと目されていたことを示しているといって良いでしょう。

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『兼見卿記』4 天正19年3月8日

 

利休の家族が三成によって蛇責めにかけられて殺されたという当時の史料・書状・記録は、この慥かならざる「噂」を記した『兼見卿記』以外には未見です。『絵本太閤記』の、「利休の妻女が三成によって蛇責めの刑に処せられた」というくだりは、或いは、当時京都に流布していたこの噂が話の素かも知れません。

江戸期には徳川家康に弓を引いた三成は謀反人とされ、後世に著された歴史書では評価が低いものが多数を占めます。これは、同じく関ヶ原で破れた小西行長にもいえる事ですが、敗者の歴史の宿命なのかもしれません。

(出版部・M)


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■史料纂集古記録編 第178回配本 兼見卿記4
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/108

 

 

 

 

 



hiroiyomi-eyecatch2本コラムでは、古記録を読むことで浮かび上がる様々なモノ・コトを、八木書店の史料纂集担当編集者Mが紹介します。