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古書通信

俳句雑誌に見る明治~昭和初期地方文化の豊かさ【日本古書通信 編集長だより12】

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先日、『三河に岩瀬文庫あり―図書館の原点を考える』(塩村耕編・風媒社)が刊行された。西尾市立岩瀬文庫のガイドブック(ブックレット)であるが、サブタイトルにある通り、様々な要因により揺れ動く現在の図書館の問題を、私設図書館として出発した岩瀬弥助創設の岩瀬文庫の歩みから考えてみようという趣旨を含んでいる。そこに掲載された座談会「岩瀬文庫から図書館を考える」に、逸村裕筑波大学図書館情報メディア系教授、堀川貴司慶應義塾大学斯道文庫教授、塩村耕名古屋大学教授(司会)に交じり私も参加した。錚々たる研究者のお話を直接うかがえて楽しい時間であったが、現実の図書館は大変厳しい状況におかれている。背景に様々な面での都市部と地域間の格差という基本的な問題もあるが、要因の一つに地域文化の持つ個性の衰退があるように思われた。各地公共図書館の施設は立派に建設されても、図書館としての個性や豊かさが何となく感じられない。それは地域的な特性とか人の問題があるのではないだろうか。その意味で、岩瀬文庫もその一つであった明治・大正期に各地に散在した私設図書館活動は参考になるはずである。
ところで、先日、古書市場で明治末期から昭和戦前、終戦直後の俳句雑誌を大量に落札した。300冊くらいあっただろうか。「句と評論」「寒雷」「鹿火屋」など既に家蔵の著名な雑誌もあり、その未所蔵分を補充出来て嬉しかったのだが、全国各地で発行されていた未知の俳句雑誌がかなり含まれていた。その中に俳句史上看過するにはあまりにも惜しい豊かな内容の雑誌が二誌あった。俳句雑誌をかなり所蔵している日本近代文学館、神奈川近代文学館、俳句文学館にもほとんど所蔵されておらず、俳句文学事典類にも立項されていない。むしろ未所蔵なるがゆえに俳句史から抜け落ちたのではないかとさえ思える。俳句雑誌の象徴的存在である「ホトトギス」は当初の創刊地は松山市であり、飯田蛇笏の「雲母」も山梨県境川村、吉岡禅寺洞の「天の川」も福岡市を発行地としていたから、近代俳句史における地方の意味は大きいのだが、未知の地方俳句誌にも豊かな内容があったことは、とりもなおさず当時の地域文化の豊穣を示すものだと思う。

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一つは、千葉県印旛郡酒ゝ井町で明治38年に創刊された「朝虹」(編集発行人・清宮清三郎、朝虹会)で、第三巻三号(明治40年6月)から第七巻十一号(明治45年2月、終刊号)の内44冊があった。明記はされていないが主幹は鈴木虎月(後に原田姓に変わる)のようだ。選者は他に富田零餘子(後に長谷川)、渡辺水巴、原月舟などが担当している。虎月の経歴は分からいないが、「ホトトギス」を通しての友人ないしは知り合いではないだろうか。彼らは選者でもあるが、面白いのは投句者から選んでもいるのであろうが、ほかに自らの句を含む題詠欄がある。例えば、第六巻九号に水巴の「秋十九題」があり、「立秋」「草市」など秋の季題19例を紹介しているが、35句の内自作が12句ある。水巴には生涯の句から選んだ『水巴句集』(近藤書店・昭和31)があるが、「朝虹」掲載の句はほとんど収録されていない。これらが初出とは言えず、「ホトトギス」などからの転載かもしれない。因みに明治40年時の水巴の年齢は25歳。零餘子21歳。31歳で夭逝した月舟は23歳である。虎月も野砲連隊に練習召集という記事があったり、途中で姓が変わったことを考えると同じ20代の青年俳人であったと考えられる。水巴が「俳諧草紙」を創刊したのは明治39年、「曲水」創刊は大正5年である。零餘子の「枯野」創刊は大正10年。「朝虹」は彼らの一本立ちする前の踏み台になっていたのではないだろうか。また第三巻から五巻にかけて吉岡禅寺洞が毎号かなりの数の句を掲載している。これは禅寺洞20歳前後で、零餘子を選者に迎え、大正7年に「天の川」を創刊する大分以前のことになる。つまり「朝虹」は「ホトトギス」の衛星誌として千葉県酒々井で、若い「ホトトギス」の有力俳人たちによって運営されていたと見てよいだろう。前記『水巴句集』収録の年譜には、明治43年のところに、「朝虹」「俳人」にも関係す、とあるだけである。なお、千葉県立図書館の蔵書の中に昭和54年創刊の「朝虹」があり、発行地は同じ酒々井で平成23年まで刊行されていたようである。かつての地元俳句誌を復刊したものであろうか。

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もう一誌は、三重県鈴鹿郡関町で原久吉を編集人に発行されていた「碧雲」である。昭和8年10月発行の第九号から昭和17年8月の百一号まで79冊ある。今回入手した俳句誌の中で冊数的に「鹿火屋」とともに最も多かった。誌名からも判断できるように、河東碧梧桐を信奉する自由律俳句誌である。第九号巻頭に同人十五人が地域別に挙げられている。奈良、京都、小樽、静岡、東京、新京(旧満州)、名古屋、三重で一応全国をカバー、昭和8年4月発行の44号は「河東碧梧桐先生追悼号」である。編集人・原久吉、発行人・原勝とあり、おそらく三重同人の俳号原鈴華、原秋甫が彼らで主幹とみてよいようだ。新京の同人は木下笑風、いずれも俳句文学辞典には立項されていない。自由律俳句は、碧梧桐選の「日本俳句」(『日本及び日本人』俳句欄)から、荻原泉井水主宰の「層雲」(明治44年創刊)と中塚一碧楼主宰の「海紅」(大正4年創刊)が派生し、この二誌を中心に動いていく。「層雲」からは尾崎放哉、種田山頭火などの人気俳人や、栗林一石路、橋本夢道などのプロレタリア俳人が輩出された。そこに自由律俳句の前身たる碧梧桐の「新傾向俳句」的要素は薄いが、「碧雲」はその点、終始一貫して碧梧桐俳句の継承を貫いたようだ。著名俳人は生まれなかったようで自由律俳句史上も看過されているといえるだろう。もっとも相当に俳句に親しんでいる方でも上記以外の自由律俳人を知る人は少ないだろう。
しかし、前記原秋甫の第9号掲載の作品、
製材工場の正午、秋刀魚燻べる、たるんだベルトが荷馬車に抛げる空転
とか、第十七号掲載の國吉大也の三行書きの作品、
小径にそひて 芦わけ口笛
さえざえ空は
漁火ちらばふ
第三十三号の東京の石井夢酔の作品
頭の毛むしつて泣いて たゞの背中でなく ねんねんころりこ唄つてやつてはどう
第六十三号の林雀背の作品、
街樹の葉が散る白いビルビル 出て来る出て来る人 黄色い風に包まれて行く
などを見ても、「層雲」「海紅」だけではない、自由律俳句の流れがあたったと見てよいように思う。
評論やエッセイ類も充実、「海紅」が殆ど投稿句で埋められているのと比較しても自由律俳句を見ていく上で価値がある。なお、昭和15年5月の七十七号から発行所を東京渋谷の林雀背宅に移している。大政翼賛会の発足した昭和15年は日本の大きな曲がり角であった。「壁雲」もその中にあったのだろう。
この二誌は偶然私の目にとまったもので、まだまだ各地に豊かな世界を展開していた俳句雑誌の存在があったことを示唆しているように思う。それらは、東京を中心に大阪、京都、名古屋など大都市における俳句の動向や思潮を地元に伝え普及させるとともに、地域の文化を活性化させていたに違いないと思うのである。各地に豊かな文化が存在することで中央の文化も活性化する。
ともかくも、資料が残っていれば振り返り再評価の道もあるが、資料が散失してしまえばその道も閉ざされてしまうことは確かなことだと思う。
(樽見博)