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古書通信

戦後版『女性改造』の休刊について【日本古書通信 編集長だより10】

20161024_1既報の通り「日本古書通信」11月、12月号で「作家と女性雑誌」を特集する。
取り上げる雑誌と執筆者は以下の予定である。

11月号
『婦人公論』と室生犀星(九里順子)
『婦女界』と菊池寛(掛野剛史)
『婦人戦旗』・『働く婦人』と中野鈴子(大﨑哲人)
『婦人之友』と徳田秋聲(薮田由梨)
12月号
『新女苑』と林芙美子(浦野利喜子)
『婦人俱楽部』と三島由紀夫(武内佳代)
『日本女性』と宮本百合子(秦重雄)
 7月号から10月号までの関東大震災特集からの関連で企画したもので、出版産業の復興と隆盛のなか文学の需要層も拡大、その要望に応えるべき通俗小説の発表媒体となった女性雑誌の役割を探るものだ。勿論、通俗・娯楽的なものばかりでなく、封建的な枷からの解放と自由を希求する女性を読者対象とするものでもあった。その点で、他にも取り上げるべき女性誌は多いだろうと思う。
 その中でも、改造社が関東大震災の前年1922年10月に創刊した『女性改造』は重要と思われるが、不二出版が大正11年10月創刊号から13年11号までを、尾形明子・鈴木裕子氏の解説を添えて復刻刊行しているので、関心のある向きはそちらによられたい。
 震災を挟んで2年間刊行された『女性改造』は、戦後1946年6月に復刊され、1950年には発行部数6万5千部まで伸張したが、1951年9月秋季特別号で予告もなく休刊となった。大正期『女性改造』もその点同じだ。大正期と終戦後では、今だしの感はあったにせよ、女性の地位の向上があり、社会的環境の変化もあったが、本誌の母体ともいうべき『改造』が、1946年1月復刊、最後は内部紛糾しながらも、1955年2月号まで刊行されており、改造社自体の出版からの撤退よりも先の休刊は不思議だ。私には、『女性改造』について評論できるほどの準備も材料もないが、たまたま、休刊間際の1951年3月、4月号を所持しているので、コピーを入手した休刊の8月号目次と巻末に掲載された社主山本実彦の「解除のご挨拶」を元に感じたことを書いてみたい。
 所持する2冊はA5判142頁、表紙は三岸節子画でカラー、カラー口絵4頁も付き、執筆者もほぼ40名に及び、いわゆる豪華執筆陣と称して間違いない。広告の料は少ないが、休刊せざるを得ない凋落の影はない。編集兼発行者は平田貫一郎。特集記事も「美しい日本語」「女子大生寮生活の実態」「現代史の三コマ」「春のめざめ」「危機のエチケット」「映画への招待」など社会性と娯楽性を兼ね備えていて発行部数6万5千部も頷ける。
 3月号に有名な国会議員不倫騒動「松谷天光光・園田直結婚妊娠」問題が取り上げられ、松谷と市川房枝(日本婦人有権者同盟会長)の「政治と愛情」と題した「誌上対決」が掲載されている。連盟が松谷・園田に対し議員辞職勧告をした。松谷は過去三回選挙に当選しているが当選の後再三所属党を変更している点と、不倫・妊娠の二点が問題点だが、論難は殆んど後者で、妻子あった国会議員(異なる党)と不倫関係を生じ、当初は結婚を否定していたが、やがて結婚、その三か月後に出産したことに批判が集中している。現職国会議員の妊娠出産は今では珍しくないが、この問題が嚆矢らしい。しかし、あの市川さんがそんなことを真剣に問題にした点に時代を感じる。因みに花森安治が同じ号で「井戸端会議」を寄稿していて、この問題での連盟の辞職勧告を皮肉り、もっとほかの国会にふさわしくない議員への批判をするべきではないと書いている。
 矢内原伊作「青春論」が4頁ある。「希望と不安とをいつも一つのものとして担うことこそ青春の本質であり、この本質に忠実であることこそ青春に実りあらしめる道である。春は不安な準備の季節であることによってのみ確実な希望の季節なのだ」といった文章を読むと、60歳を過ぎても胸にきゅんと来る。矢内原も当時33歳である。
 4月号の「春のめざめ」には三島由紀夫が「文学と春のめざめ」を寄稿している。コクトウとラディゲを称賛した内容で、「春のめざめは性欲そのものというよりも、人生に対する好奇心と恐怖とおどろきと喜びとの複雑な混合体である。われわれは人生を自分のものにしてしまうと、好奇心も恐怖もおどろきも忘れてしまう。思春期に於ては人生は夢みられる。われわれは生きることと夢見ることと両方を同時にやることができないのであるが、こういう人間の不器用さに思春期はまだ気づいていない。」などと書いている。三島自身もまだ二十六歳の青年だった。不器用にしか生きることが出来ない人はいるが、夢見ることと生きることは同時に出来るのではないかしら。それとも「生きる」の意味が違うのか。
 中村真一郎が、戦後、友人芥川比呂志から弟也寸志の為にオペラの台本を頼まれたが上演に至らなかった。平和回復の祝典が主題のオペラだったが、それを「歌の功力」として4月号に寄稿している。終戦から6年、芸術復興の時代だったのだなと思う。娯楽や情報のまだ少ない時代充実の内容である。
 さて、休刊号となった8号秋季特別号掲載の山本実彦の「解除の御挨拶」である。『改造』にも同趣旨の挨拶が掲載されたかどうか調べていないが(『改造』昭和26年10月号に「時局雑感―追放解除に際して」を寄稿している)、『女性改造』読者に向けた挨拶である。「私は追放のため六年に近い永の年月を読者の皆さんとお別れしていましたが、去る八月六日漸く解除されて三たび改造社の代表者に選ばれて皆さんと誌上でお目にかかるの光栄を有つことになったことを嬉しく思うのであります」と始まり、「私が刊行当時声明しました女性解放の大部分は既にアメリカの協力によって遂行されたやの感がありますが実質的にはまだまだの感を深くします。私どもはこれからそうした方向に力点を置いて具体的に示標して行きたいと思います。解除に当たりホンの一言お挨拶申上げる次第です。」と締めくくっている。
 本文も「座談会日本の青春を愛す」、「特集愛と憎しみの蔭に」「特集いかに読むべきか」など休刊の理由は見当たらない。
 古書市場で文学雑誌専門の扶桑書房さんに会ったので、聞いてみたら意外な答えが帰ってきた。朝鮮戦争(1950年~52年)の影響で、多くの雑誌が昭和26年(1951)夏頃に休刊しているのだという。調べると『日本評論』6月、『人間』8月、『展望』は9月に休刊している。太平洋戦争中の物資欠乏時代ならともかく、昭和26年にそんなことがあったのか不思議だが、事実が証明している。前記の山本の挨拶の中にも、「発行が遅れたり合併号を出したりなどしてこれまでたいへん読者の期待を裏切りました」との文言もある。
関忠果ほか編著『雑誌「改造」の四十年』(1977・光和堂)には、『女性改造』についての言及は少ないが、「昭和二十六年度は、小野田政編集長の三年目(『改造』の)で、(略)この年、改造社は不渡り手形を出し、「不況倒産」を理由にして、改造社から、株式会社改造社に組織をかえようとした。改組にともなって、出版活動を停止し、『改造文芸』は休刊となり、『女性改造』は続刊ときまったが、これも合併号を二号だして休刊となった」とある。また、「旧改造社時代の原稿料や印税は棚上げされ、作家や評論家や学者などの信用は、ガタ落ちになった」とも書かれている。『出版年鑑』1952年版の「概観」雑誌の項に、「紙価の高騰は、雑誌でも漸次定価の引上げ(約二割)を来たし、中には定価―原価―売上げ部数のバランスを失して、休、廃刊に至るものが続出した。一般の市販誌について見ると、前年の六百数十点に対して五百数十点という減少ぶりである。なかでも「展望」「人間」「日本評論」などの相次いだ休刊は一般からも惜しまれている」とある。朝鮮戦争景気がインフレを起こしたという事か。ただ、不二出版の復刻解説で鈴木裕子さんや尾形明子さんが書いているのだが、大正期の『女性改造』の休刊は、震災による不景気が背景にあるとはいえ、「活気と華やぎ」を切り捨てて内容を硬化させたことにより、母体『改造』との差がなくなり存在意義が薄れたことと、編集員が『改造』との掛け持ち状態で、強いリーダーシップを発揮する人物も不在だったことを理由に挙げている。昭和27年7月1日、山本実彦が亡くなるなど、戦後版『女性改造』にも同様の要素は拭えないという気がする。
(樽見 博)