神戸の小売書店へ 【紙魚の昔がたり1】
(反町茂雄) 今日は八木書店の八木敏夫会長においでいただいて、波瀾の多い、ご立身のお話をゆっくり伺いたいと存じます。お若い時から、この業界にお入りになる前後のことから、どうぞお願い致します。
(八木敏夫) 過分の御紹介を受けましたが、明治四十一年十二月に兵庫県の二見町東二見、現在は明石市に編入されていますが、そこで生まれました。父は米穀商をやっていました。凡々としているのが嫌いな人で、当時の米屋には相場がつきものでしたが、大きく相場をはり、同時に船を何艘か持っていまして、廻船問屋のようなこともやっていたようです。生半(なまはん)という屋号で、「半」という旗印の船です。代々半兵衛を名乗っていました。
(反町) お名前は何といわれたんですか。
(八木) 磐太郎(いわたろう)といいます。五代目半兵衛ですが、磐太郎で通しました。若い頃から学問が好きで、学校の成績も良く、『加古郡誌』の編輯に携わったり、二見港の改築に努力をしたりしたようでした。欧州大戦の時に鉄鋼業に手を出し、家の周囲にあった貸家を工場にかえました。神戸から職工を呼んできて、造船に使うナットなんかを造っていたのです。ですけど、戦争の終わると共に失敗して、すっかりすったらしい。それから不動産業をやって、山を買ったり、田を買ったりしていましたが、私が学校を出る頃は、もっともピンチの時だったらしいんです。
私は二見の尋常小学校を大正十年に卒業しまして、神戸の育英商業学校に入りました。昭和二年に卒業すると同時に、神戸の福音舎という新刊小売店へ住込小僧として入りました。その年の七月に岩波茂雄さんが、新聞の一ページ大の広告で、岩波文庫の創刊を発表されました。今まで二円、三円の定価の本が二十銭とか四十銭で買えるわけです。三円の本で二割あれば、六十銭の利益があるわけですね。それが今度、二十銭の本で二割、わずか四銭しかない。それじゃ新刊屋は食べて行けないという気がしました。何か別の仕事を考えなくっちゃいけないと思ったんですが、入店時の約束が徴兵検査までということだったから、徴兵検査まで勤めました。
関連書
本コラムの全文をはじめ、弘文荘主・反町茂雄らが12人の古書店主から聞き出した古書業界の激動史。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2045