• twitter
  • facebook
古書通信

天目山荘・武者宗十郎 【日本古書通信 編集長だより6】

「日本古書通信」2016年6月号に掲載した、萱場健之さんの「『亘理町立図書館和漢古書目録』と天目山荘のこと」で、伝説の蒐書家・天目山荘は、通説となってきた武者惣藏(昭和6~平成25)ではなく、その父・宗十郎(明治12~昭和28)であることが書かれている。武者家は宮城県亘理町の阿武隈川水運を担ってきた豪商で、江戸期には幕府から浦役人を任命された家柄である。宗十郎はその十八代目であった。天目山荘を名乗る奇行の蒐書家が武者惣藏とされた経緯を辿ると以下の文献になるようだ。
1、 庄司浅水『愛書狂の話』の後記(ブックドム社・昭和7年)
2、 坂本一敏「愛書家の生態」、「別冊太陽 日本のこころ53 本の美」収録(平凡社・1986)
3、 八木福次郎「奇人・天目山荘」、『古本蘊蓄』収録(平凡社・2007)
八木の文章は、版画家・関野凖一郎著『絵入小説 天目山荘』(私家版・昭和30)を一つの契機として書かれている。そこでも本書は全くのフィクションだという関野の言葉を紹介している。読んでみると実に面白く描かれていて、同郷太宰治とも交流のあった関野の作家的素質が伺われる作品である。
20160620_1 20160620_2

 関野は、一時、アオイ書房の仕事を手伝っていた関係で、限定本の一番本を強引に注文してくる天目山荘の奇妙な字による注文書には実際に接していた。しかし、本人とは会ったことも、その住まいである亘理町の荒浜にも行ったことはない。文庫サイズの『絵入小説 天目山荘』には山が海際まで迫る湾曲した荒浜の風景画が描かれているが、実際の荒浜は平で真っすぐな浜辺が続く町で、それ故に東日本大震災の折の津波で大きな被害を受けた。また古い商家の土間を抜けた裏の畑の中に立つ乞食小屋に蒐集品に囲まれて住む天目山荘その人の狐の化身とみまごう姿も描かれているが、勿論想像の世界である。表裏の見返しは天目山荘からの注文書らしきものが用いられているが、これも関野が昔の記憶を頼りに創作した版画であろう。第一、名前を「伊藤辰四郎というらしい」と書いている。前記の庄司『愛書狂の話』の後記を引用している。
 宮城県荒浜在に褥合戦赤枕と云うとてつもない変んちきりんな名を用いた武者某という本気狂いが居る、大変な金持だが、あまり本買いが荒いため禁治産を喰つた。処が例の大震災で関東地方の本がご承知の如くみんな焼失してしまつた。その為彼の買つた本が買い値の幾倍かで売れて家産を取りもどしたという話である。
 関野は、天目山荘と同住所であり、時々号を変えるので、この武者某と同一人であろう、と書いている。『愛書狂の話』には天目山荘、武者惣藏という名は出ていない。天目山荘=惣藏が出てくるのは、「日本古書通信」昭和30年3月号の茂木十九楼「紙魚の穴 仙台」という小さなコラムで、「最近の話題としては、昨秋どつと当地古書市場をざわめかした天目山荘主人、故武者惣藏氏の蔵書払い出しであろう」という記事が最初のようだ。この記事と、萱場氏の聞き取りを合わせて考えれば、故武者惣藏となってはいるが、昭和28年に亡くなった宗十郎氏の蔵書が、息子の惣藏氏によって翌年昭和29年に古書市場に流れたと判断してよいだろう。この記事を記憶していた坂本氏や八木が天目山荘を惣藏氏と認識した。故人とあったのだから無理もない。
 この本誌の古い記事を知ったのは、国会図書館勤務の藤元直樹さんという方の「研究ブログ」(2014年9月19日)であった。このブログによれば、岡野他家夫さんも「政界往来」という雑誌の1964年9月号に「書痴」と題して天目山荘について書いているようだ(未見)。
 藤元氏は大阪府国際児童文学館で「発売禁止珍書 宮城県 天目山荘 荒浜町 道楽日下開山」という蔵書印が捺された井上勤訳『月世界旅行』を見たと書いておられる。坂本さんの「愛書狂の生態」には「宮城県 天目山荘 荒浜町」という蔵書印と、同文の小さな丸印が掲載されているが、他にも藤元さんが紹介している印文の他に「宮城県亘理郡荒浜町武者紀念館」「徳川禁令備考附 宮城県荒浜町天目山荘未來室」などの蔵書印があったと書いている。
20160620_3関野さんに限定50部の銅版画絵本『雨月物語』(青園荘)という有名な本があるが、坂本さんは、あちこちベタベタと青のスタンプインキで「天目山荘」という蔵書印が捺されたこの本を所持していたことがあったそうだ。
 天目山荘といえば、八木も書いているように、「吾は東北一の蔵書家なり」と始まる奇妙で強引な注文書と、前記の『雨月物語』のように、折角入手した美麗な本にベタベタといくつも蔵書印を捺すといった愛書家としては奇行の人物と相場が決まっている。しかし、八木も坂本さんも、関野さんも実は誰も天目山荘には会っていない。坂本さんは、前記の文の中に天目山荘は庄司さんの遠縁とあるが「生前彼に会って話をしたという愛書家を知らない」と書いているのだから、庄司さんも会ってはいないのではないだろうか。青裳堂書店の日本書誌学大系『新編蔵書印譜』には天目山荘の蔵書印は含まれてない。書店主後藤さんに何故収録されなかったのか聞いてみたら、和本の蒐集家ではないし、蔵書印そのものがスタンプのようで品がないからといった返答だった。しかし、確かに変なところはあったにしても、本の買いすぎで「禁治産者」になるほどの奇行の人だったのだろうかという疑問もある。
 萱場さんが、天目山荘武者氏に触れる契機は、亘理町立図書館所蔵の和漢書の中に、武者宗十郎氏寄贈の本が五点あったことによるが、前記のような蔵書印は捺されていない。また、東日本大震災の津波で武者家に所蔵されてきた同地の海運史や流通経済史にかかわる重要な古文書類が被害を受けた。それらは宮城歴史資料保全ネットワークによって補修されつつある。昨年2月から3月にかけて亘理町立郷土資料館で開催された「東日本大震災と救い出された資料」展でもその一部が展示されている。
昭和29年に仙台の古本屋に払い出されたもの、さらに坂本さんが書いている昭和31年に東京の古本屋が購入した奥座敷に用意されていたものが、現在の古書市場に流通しているもので、武者家伝来の歴史資料は流失していないのかもしれない。天目山荘宗十郎は武者家資料には手を付けなかったということではないか。そんな人が「禁治産者」になるだろうか。
 もう一つ驚くべきことがある。本誌で「放浪記余録」を連載されている廣畑研二さんからご教示と資料の提供を受けたのだが、1920年8月に山川均を中心にして、各地の労働組合や学生団体、社会運動家らの思想団体を網羅して結成された「日本社会主義同盟」の名簿に武者宗十郎の名があるばかりでなく、彼の紹介で宮城県人57人が同盟名簿に記されているのだ(『初期社会主義研究』22号・2010年、廣畑研二「もう一つの日本社会主義同盟名簿」など)。同盟は官憲の弾圧によって1921年に解散に追い込まれている。世界を震撼させた大逆事件の後であり、ロシア革命の後に結成された団体である。新しもの好きの変人が興味本位で一人勝手に加盟したのではない。40歳になる豪商の主人(当時まだ先代がいたかもしれないが)が同郷人57人を誘い加盟したのである。宗十郎は一定の信用を得た人物であったのではないだろうか。「禁治産者」になったとすれば、本の買いすぎではなく、この日本社会主義連盟への加盟が関係したとも十分考えられる。もっとも、坂本さんによれば、天目山荘の蒐集対象は発売禁止本や風俗資料であったというから、父親の蒐集癖に散々悩まされてきた息子の惣藏氏が、伝来の武者家資料とは無関係の天目山荘本を売り払ってしまったということなのかもしれない。(樽見 博)