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古書通信

久保田万太郎「夏のわかれ」追跡―『薄田泣菫宛書簡集』によって 【日本古書通信 編集長だより5】

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                 <倉敷市蔵久保田万太郎葉書>

 八木書店刊行の『倉敷市 薄田泣菫宛書簡集』の三巻目「文化人篇」(3月25日刊)に1通だけ久保田万太郎の葉書が収録されている。大正8年10月18日消印の葉書で、大阪毎日新聞社薄田淳介宛。文面は短く「小説「夏のわかれ」(十五回分)今朝ほど小包にてお送りいたし候。御落手下されたく候。匆々 十月十八日 久保田万太郎」とそれだけだ。「夏のわかれ」には注がついていて、「原稿は泣菫の手許に渡ったようだが、『大阪毎日新聞』には発表されたことは確認されていない。」とある。(上の図版は倉敷市のご厚意で葉書画像を提供頂いた)
 以上から考えられるのは、万太郎が送った原稿「夏のわかれ」は、泣菫の判断かどうかは分からないが、掲載取りやめ、いわゆる「没」になったということだ。あるいは、万太郎側の何らかの事情で掲載をやめたとも考えられる。
 ほぼ同時期の泣菫宛武者小路実篤書簡が2通、「作家篇」に収められている。同年8月14日と9月10日の葉書だが、この2通と注から、武者小路が菊池寛の「友と友の間」(8月18日~10月14日連載)の後を受けて「友情」を執筆、同年10月16日から12月11日まで連載されたことが分かる。武者小路が「友情」の残りの原稿を送ったのが9月10日、掲載開始は翌月16日でその間約1ヶ月だ。万太郎が送ったのは10月18日で、「友情」の後の掲載だとすれば2ヶ月も開いてしまう。作家として忙しくなりつつあった万太郎としては微妙な空白といえる。因みに万太郎は、大正6年11月5日~23日に、小説「きのふのこと」(『毎日新聞七十年』では「昨日の事」)を「大阪毎日新聞夕刊」に、大正12年2月14日~4月14日まで小説「黄昏」を「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」(東京は12日まで)に連載している。そして「友情」の後を受けて3回連載されたのは成瀬無極の「四十歳」、続いて志賀直哉の「或る男とその姉の死」だ。これは、書簡集の編纂者の一人掛野剛史さんが『毎日新聞七十年』に同紙の連載小説一覧が記録されていると教えてくれて分かった。それによればいずれも夕刊掲載であった。同時期の朝刊には長田幹彦「白鳥の歌」が連載されている。
 なお、志賀直哉の「或る男とその姉の死」掲載(大正9年1月6日~3月28日)までの経緯と、掲載開始後の一時休載(大正9年1月23日~2月13日)に絡む泣菫とのやり取りの書簡8通が書簡集「文化人篇」の補遺に収録されていて興味深い。大正8年11月から9年10月までのもので、以前から泣菫が志賀に連載依頼をしていたことも分かる。同時期ではあり志賀の存在も万太郎作品掲載と無縁ではないように思う。新聞連載小説は同人誌や文芸誌と違って分量や切れ目など制約が多いし、予定通りに作家が書いてくれるとは限らない。その辺の調整は難しいものだと思う。
 ともかくも、万太郎の「夏のわかれ」は掲載されなかった。全集には同名の作品は収録されていないし、著作年表にもない。どうなってしまったのか気になるところだ。著作年表によれば、大正8年11月の「人間」創刊号に小説「九月幮」(くがつかや)を寄稿、また翌年の「婦人画報」8月号に「月かげ」(『青鷺』(大正10年・国文堂)収録、更に『わかもの』(大正12年・玄文堂)収録にあたり「續九月幮」と改題)を掲載している。共に全集第二巻(昭和50年3月、中央公論社)に収められている。「夏のわかれ」と「九月蟵」というタイトルは通じるものがある。読んで見ると次のような内容であった。
 浅草で吉原の人たち相手に髪結いをしているお住は15歳で両親を失い、母親の知り合い三桝屋の世話で成人、宮戸座近くに家を持った。お住は真面目で技掚は確かだが縹緻に自信がない。心配した三桝屋は将棋の会所で知り合った廣吉と所帯を持つことを勧めた。廣吉は大阪で浄瑠璃の太夫をしていたが、悪癖の博打で問題を起こし東京に逃れて活動写真のチョボをしていた。博打の悪癖があることをお住は知らなかった。夫婦になって3年たった夏の初め、鬱々と過ごしていた廣吉はまたもや博打に手を出し始めるが、大阪の伯父からの勧めもあって出直しをはかるべく大阪に戻る。廣吉からは一度だけ、師匠への詫びの話は上手くいきそうだが、他の用もあるのでいつ帰れるかまだ分からないという便りがあったが、その後は何の音沙汰もない。やがて大阪で若い女と連れだって歩く廣吉を見かけたという噂がお住の耳に入る。縹緻の悪さに神経質的な引け目を持ち、いつかは捨てられるという不安を拭えないお住の心理は徐々に追い詰められていき、九月半ば憂鬱な秋の長雨の続いた後、自ら喉を剃刀で切って自殺しているのが発見される。そこに廣吉から久しぶりに逢った腹違いの妹を連れて二、三日のうちに帰るという知らせが届く。(「活動写真のチョボ」とは何か、稲垣書店の中山信行さんに聞いたら、チョボは歌舞伎や浄瑠璃の太夫のことだから、初期の活動写真でも映像にあわせて歌舞伎と同じような語りをいれたのだろうということだった。)
 万太郎30歳の折の作品だが、生地浅草の風情と江戸言葉を活かしながら、お住が精神的に追い詰められていく過程が見事に描かれている。万太郎の代表的中編と言われている由縁だろう。一連の話である「九月蟵」と「月かげ」が何故、雑誌を替えて発表されたのか分からない。ただ、内容的に「夏のわかれ」と題しても良い内容だと思う。全集で見ると、両作品は所々1行あきになっていてそれが9か所ある。つまり10区分されている。「九月蟵」は6区分で、各68行、137行、93行、237行、100行、26行。「續九月蟵」(月かげ)は4区分で166行、112行、69行、4行。合計で1012行。例えばこれを、泣菫宛に送った「夏のわかれ」と同じ15回として分けると、1回あたり67~68行となるが、これは「九月蟵」の1章目、あるいは2章目を2回分と見れば同じだ。全集は1行27字だから1回分、1800字超。初出の「人間」や「婦人画報」ではどのように掲載されたのか。また何か注記がないだろうか。調べて見ることにした。全集には勿論ふれられていない。

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「人間」は劇文学の振興を目的に組織された国民文芸会を母体として創刊されたもので、里見弴、吉井勇、久米正雄、田中純が中心であった(裏表紙に四人の編輯とある)。大正11年6月まで24冊刊行されたが、日本近代文学館で復刻されている。日本の古本屋で検索すると創刊号と、復刻の第一期分が解説書付で出ていたので、復刻の方を購入した。「人間」創刊号掲載「九月幮」では、全集文の最後に6行「ある朝、お住は、廣吉から手紙を受け取つた。・・・」と手紙の内容を書いて話を終わらせている。最後に(八年十月)とあり、「夏のわかれ」執筆と同じことが分かる。1行あきは、ここでは3行あきだ。「婦人画報」掲載の「月かげ」は神奈川近代文館にコピーを郵送してもらった。タイトルに「短篇小説 月かげ」とあり、冒頭に1行「廣吉が大阪へ立つて、もう、十日になる。」とあり、あとは「人間」掲載の最後の6行分が少し言葉を変えて入っている。こちらには末尾に(九年七月)と記されている。総ルビで、これも全集とは違う。全集は恐らく『わかもの』掲載のものを底本として収めたのであろう。なお、昭和22年に『九月幮』の書名で大阪の大耀書房から単行本が出ている。これも全集と同文だが、あとがきのようなものはない。つまり二篇を一つにした本はない。
 以下あくまでも想像の域を出ないが、私なりに事情を推測してみる。万太郎が泣菫に送った「夏のわかれ」は、ほぼそのまま「九月幮」と「月かげ」であるか、少し手を加えたものであろう。良く描かれているが、話は大阪の浄瑠璃の太夫廣吉は出て来ても、浅草を舞台に東京下町の言葉、風情で描かれている。「大阪毎日新聞」に掲載するには違和感を泣菫は覚えたのではないか。それに以前から志賀に依頼している原稿も気になったのだろう。武者小路の「友情」も予定より長く、「夏のわかれ」は万太郎に戻されたのではないか。また、万太郎は折から創刊される「人間」にも原稿を依頼されており、戻された「夏のわかれ」の三分の二ほどの切れの良いところに廣吉の手紙が届いたことを書いて今後の展開に含みを持たせて終わらせた。枚数に制限がなければ全部一挙に掲載されたのではないだろうか。もと一つであったものを二篇に分ける意味が私には理解できない。そのように結論付けてはみたが、勿論真偽のほどは分からない。短い一通の葉書だが、探ってみると他の書簡とも関連していて極めて面白かった。あるまとまりを持った書簡集の意義の一つかもしれない。
(樽見博)