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古書通信

舒文堂河島書店熊本地震日記 河島一夫

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今回の熊本地震に際し、「日本古書通信」の熊本、大分両県の読者に見舞状を出したところ、熊本市の老舗古書店舒文堂河島書店のご主人河島一夫氏から「平成28年熊本地震日記」が送られてきました。震度7という大地震が続けて2度起こるという未曽有の災害、連日のニュースで知らされる被害の大きさに驚くばかりです。河島氏の実体験は、日本に暮らす以上誰にとっても他人事ではありません。4月14日から17日までの4日分を、ご承諾を得てここに紹介させて頂きます。少々訂正省略したところがあります。
ここに改めて被災地の皆様へのお見舞いを申し述べます。(日本古書通信編集部)

4月14日(木)
私は全連市会で東京古書会館を午後5時頃に離れ、長男はABAJの年次総会を5時過ぎに出て、お互い羽田に6時30分近く落ち合った。夕食を取る時間がなく、弁当を買って飛行機に乗る。7時05分発の予定が、約15分機内で待たされた。阿蘇、熊本空港には9時05分着であった。飛行機を降り、車を預けていた駐車場を出たのが9時25分頃、息子の運転で市内に向かっていた9時35分頃、免許センターを通り過ぎたあたりで、大風でハンドルを取られたように大きく車が横に振られた。何だろうと思った瞬間、前方の熊本市街地が、打ち上げ花火が失敗したかのように一面、パッパッパと光った。息子は、ミサイル攻撃にあったように見えたと言った。その後、車のラジオで地震だと知った。その時は、どれ程の地震か解らなかった。自宅近くになって家内の携帯にやっと繋がった。「あとどれくらいで着く」「あと、10分位」家の近くで先に降りて自宅に向かうと、町内の人達は外に出ていた。10時頃であった。店に着くと積んでいた全集は崩れ、本棚から本が散乱していた。3階の住まいまで上がる階段にも本が散乱している。本を踏んで何とか3階まで上がった。家内はこわばった様子でリビングの椅子に座っていた。「大変怖かった。今でも余震が続いて怖い」と言った。室内を見れば、ピアノが20センチ程前にずれている。妻に言われて、隣接している台所をみれば、食器棚からコップやら皿等が半分程飛び出し、とても近づけない状態だ。冷蔵庫も大きく前に飛び出していた。妻の恐怖の話を聞きながら、まずは息子と弁当を食べる。その時も、割りと大きな揺れが来る。「ドスン」と音がし、グラグラと来る。それが10分位の間隔でくる感じである。その度に、家内はテーブルの下に潜る。「何も落ちてくるものは無いから潜っても仕方が無いよ」と言っても、「怖いので下に潜る」と言う。私は、揺れが来るたびに大きく揺れる薄いテレビを押さえていた。その夜は、大きな揺れも少なくなり、11時30分過ぎに床に着いた。夜中何度も揺れるので余り眠れなかった。

4月15日(金)
何時もより少し遅く6時頃起きる。相変わらず小さな余震は続く。羽田で買ったお菓子と、電子ジャーのご飯をおにぎりにして食べる。私は、離れの昭和5年に建った二階建て木造の状態を見に行く。潰れずに外観はどうもなっていない。中に入ると、一箇所漆喰の壁が廊下に落ちて土壁が散乱していた。ここにも本を置いているのだが、低く平積みにしているので被害はなかった。まず3階までの階段の本を元通りに積み上げる。次に、自動ドアの前に積んでいる全集類を元に戻して、外から見た感じでは、何事も無かったようにした。通常9時20分に出勤してくる女性従業員2人の内、1人は来れないとの事。1人の従業員と息子と3人で、その日の内に、店内の状態は、ほぼ元の状態に出来た。片付けていると、10時過ぎに、昨日夕方来店した外国人が、やって来た。昨日見た版画類を買いに来たのだ。私が居なかったので、価格の交渉が出来なかったので、明朝、来ると言っ帰って行ったと妻から聞いていた。全部で22万円を20万円と言うと、もう一割引けという。外国人とはよく行う交渉である。こちらも片付けにおわれている。言われるが如く18万円で良いというと、半分現金、残りはカードで支払った。彼は、駅前のホテルに泊まっていて、地震後にホテルの案内で、近くの学校で一晩過ごしたとのことであった。
二階の事務所のドアが開かないと、台所の食器類を片付けていた家内が店に降りて来た。スライド式のドアだから、事務机に積んでいた書類等がドアが開くのを遮っているのだ。ドアの下にも書類が散乱しているのか、ドアをはずせない。長男が力づくでドアを持ち上げ向こうに押すと隙間が出来た。それを再度、押してやっとドアが外れた。事務所も書類が散乱していた。事務所の入口横に置いていたスチール棚が倒れていた。そこには、直ぐには整理出来ないようなものをついついその棚に押し込んでいた。棚の上には使えそうな古い箱類を積んできた。それらも元に戻す。少し変わった一枚物などを置いていたので、こんなものもあったのかと思いながら、商品になりそうもないものは、この際処分して必要なものを元に戻す。今日は、5時迄の片付けてと言っていた時間となった。倉庫は、明日からの整理だと手をつけず、その日は店を閉める。疲れて、何時もより余計にビールを2缶飲み、一合余り焼酎を飲む。うつらうつらしていると、風呂が沸いたので入るように言われて風呂に入って、早々に寝る。家内も、その後風呂に入って寝た。

4月16日(土) 二回目の地震は前回の倍の揺れようだった。
熟睡していた夜中午前1時25分、下から押し上げるような揺れと同時に横揺れが大きく襲った。2人寝ているベッドが大きく横に動く。私は、ベットから放り出された。横にあった家内の本棚が倒れて本が降ってきた。家内の本だから重たい硬い本は無く怪我も無く、本棚を押しやり、再びベッドに戻った。凄い地震だったなとの思いであったが、また、そのまま寝ようと思ったその時、4階に居る長男がドアを開けて、ここから逃げないと駄目だと言う。頑丈なビルに居るので、ここの方が安全だと思ったが、長男は逃げなきゃ駄目だと言う。室内は真っ暗である。昨日、念のためと用意していた大きな懐中電灯を手に取る。それで、部屋を点検したら、洗濯機のホースが外れて水がシューシューと噴き出していた。家内が元栓を止める。昨日直したピアノが大きく前に動いている。冷蔵庫も大きく前に出てドアが開いている。自宅の点検を終えて、着の身着のまま、懐中電灯を片手に本で埋まった階段を降りて外に出ると、町内の多くの人達も逃げている。取り敢えず500m程先にある城東小学校(NHKの横にあるので、よくテレビで校庭が放映されていた)に行く。学校の役員の人達であろうか、体育館からマットや椅子を校庭に出している。家内を見れば寝間着のまま小さな毛布を肩に掛けていた。家内をマットに座らせると、私は再度、店に戻った。着替えるためとスマートホンを取りに行った。着替えを終えて、夜中2時半頃であったろう。町内の被害状況を見て回った。町内の会長をしている立場として、先ずは被害状況を真っ暗なアーケード街を見て回った。あちこちガラスが落ちていたり壁面の壁が落ちていたりしていたがアーケードの損傷もないようだし、ビルの倒壊もないようだった。我が店の前を見れば、前のビルの側壁が崩落して粉々に散らばっていた。我が店の所までも拳大の破片が転がっている。よく店のガラスを直撃しなかったものだった。店は閉めるとガラス張りの扉にして、夜間でもウインドショッピングできるようにしている。再び小学校に戻った。最初に行った時の倍の人達が来ていた。車できている人も多い。車内で寝れるからだ。椅子に座って近所の人達と話す内に寒くなってくる。その後、教室も使えるとのことで教室に入ると多くの近所の方々がいた。体育館は壁面が壊れているとのことで使用できない。5時になり明るくなってきたので、一人店に戻ると言って離れる。途中、近くの大神宮が崩壊しているとの情報で見に行けば、思ったよりも被害が酷い。裏の高い城の石垣が崩れて大神宮を襲っていた。その先も石垣が大きく崩れて、西南戦争でも焼けなかった櫓が崩壊していた。それらを見て、すぐ近くのホテルをみれば、大きく壁一面亀裂が入っていた。ホテルの総支配人の友人横山さんに会うと、一昨日も昨夜も寝てないという。再度、街を見て回って店に戻る。
小学校の横の新築マンションに引っ越してきた次女夫婦が部屋に来いという。次女の部屋で、朝食を取る。炊いてあったご飯をおにぎりで食べる。さあ、店を片付けようかと家内に言うと、余震が多いので、また大きなのが来たら危険だと制する。その日は、階段の本の片付けに終わる。店の被害は、市道との境に大きな敷石と間に小さな敷石を一列敷いているのだが、中央の敷石が外れて浮いている。両側の石は割れている。小さな石は粉々になっている。店の半分は3ミリか5ミリ程浮き上がり、半分は沈んでいる。長男の指摘でビル全体が1センチほど北に傾いているのに気が付く。南側の大きな柱の壁面が1センチ程隙間が出来ている。それで、店半分の透明なガラスサッシ戸が開かない。店内では、中央の棚が動いている。そして、浮き上がった時に本の上に乗りあげていた。これは、一度全部本を取って動かさないと、とても動かせるものではない。大変な地震の力である。再度、離れの 家を見に行く。これは、5センチ以上北に傾いて、サッシの扉が閉まらない。元に戻せるだろうか。そして、一番奥の塀が倒れていた。戦前のレンガ塀を外からセメントで固めてあったのが倒れたのだ。隣の建物に倒れて崩壊はしていない。この日は、入口の本を歩ける様に整理していると、朝から本を買いに来たという中年の男性が来た。こんな惨状で、無理ですと言うと、県外から来たと言う。それでは、何の本かと聞けば、陸上自衛隊が出した西南戦記の本と言う。その本棚まで、靴を脱いで散乱している本の上に乗って見に行くと、一列だけ本が落ちていない。何と言われた本があるではないか。取り出してお客さんに見せると、喜んで買って帰られた。一万円の本であった。それ以上の整理はせず、次女のマンションに行く。夕方から長女夫婦と娘婿の従姉妹さんも一人で怖いと来た。新築マンションで耐震性もある様で余り揺れない。その夜は、ビールと焼酎を飲んでおにぎりを食べて皆雑魚寝で寝る。余震は続いている。

4月17日(日)
5時頃起きる。この時間になると外も明るくなって来る。軽い朝食を済ませて7時頃店に行く。外では、前のビルにもう足場を組んでこれ以上コンクリートが落ちてこないようにしていた。とてもの早さに驚いたが、親戚の業者だそうだ。それにしても、この時に作業がすぐに行えるものだ。店に入り奥まで本を踏まずに行けるように本を両側に積んで行く。一時間程で通路は確保できた。その頃、長男も店に来た。まずは、入口のエントラスに積んでいた全集等を整理する。通常の出社時間になったら従業員の上原さんが来てくれた。床に散乱している本を横に積んで行く。その作業で午前中は終わる。私は、母が入院している近くの病院へ行く。相変わらず眠っていたのでそのまま起こさずに帰る。ベッドの周りの衣服棚は全部倒してあった。再度の地震予防で全部倒したとの看護士の話であった。帰りに何時もお参りする手取菅原神社に行くと大きな鳥居が倒れていたのには驚いてしまった。店の近くのワインバーのマスターにあって話す。ワインは全部下に落ちて割れてしまい、どうしようもなくそのままにしているとの事であった。瓦が全部落ちている家、壁面が倒れて道路を塞いでいる家と、思いの外酷い状況であった。その日は、横に積んだ本を元の棚に戻す作業をする。午後1時頃に裏の木造の家の点検に行くと台所の水が出ていた。地震で蛇口の栓が緩んでいてちょろちょろと水が出ていた。それで、水が出ることが解って家内に言う。避難している次女のマンションは出ないと言う。トイレが使えることでホットする。飲み水は、配給されて幾分かはあるのだが、これをトイレには使えない。午後1時頃に大阪に住む80歳を過ぎた叔父さんから、現金書留で見舞状と5万円が速達で届く。直ぐに電話して、お礼と現状を言う。午後3時頃であったろうか、長男の嫁の実家の大牟田から、軽トラ1台分の水と米や食料品等が次女のマンションに届く。これは、精神的にも安心できた。有難い。夕方、長男が困っている町内の人達にもらった水を配る。同じ時間にガスの元栓を止めるとガス会社が来た。その日は、午後5時頃まで店の整理で終わる。店兼自宅で水が出るので、自宅で過ごすことにする。トイレが安心して使えるのが一番だ。3階にいると、時々、「ドン」グラと来る。これには安心できない。早めに寝る。