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古書通信

宮城県亘理町と漱石「文鳥」【日本古書通信 編集長だより4】

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3月11日の朝日新聞に「漱石「文鳥」の原稿、津波被害からの「再発見」」という記事が掲載され、不思議と気になった。その後偶然が重なって、原稿が「再発見」された宮城県亘理町に行ったり、「文鳥」そのものについて少し調べることになったのでその経緯を書いておく。
 「日本古書通信」2012年6月号に元宮城県図書館司書の萱場健之さんが「宮城県亘理町立図書館の古書整理」という一文を寄稿されている。萱場さんは、町の依頼で震災前から同館の和書・漢籍の整理をされていた。亘理町は阿武隈川河口の米の積出港として栄えた町で豪商が多かった。所蔵和漢書の中心は、当地出身で長く仙台一中(現・仙台一高)の国漢教師だった伊藤賢蔵氏が蒐集されたものである。昭和10年に遺族が逢隈村(現・亘理町)立通俗図書館に寄贈、それが現在の図書館に引きつがれてきた。その整理が済み昨年3月に『亘理町立図書館和漢書古書目録』が刊行され、萱場さんが今年3月15日に遅れたけれどもと送って下さった。
漱石「文鳥」原稿を所蔵していたのは、同じ亘理町荒浜の豪商江戸清吉である。清吉が蒐集した2万点に及ぶ書籍・原稿・書簡は、1978年の宮城沖地震の際に壊れた遺族宅から発見され話題になったが、2011年3月11日の津波で再び被災、文化財レスキューによって救出された資料の一部が奈良文化財研究所に送られ、真空凍結乾燥などの処置を施されて、図書館に隣接する亘理町立郷土資料館で保管することになった。その中の漱石「文鳥」の原稿が、今年3月26日から開かれている神奈川近代文学館の「100年目に出会う 夏目漱石」展に出品されることになり、朝日の記事は3月11日にあわせて報道された。
前記の伊藤賢蔵氏は苦学した方で豪商の出ではないが、蔵書家を育む土地の気風が亘理にはあり、江戸清吉や、収書のライバルであったという天目山荘・武者宗十郎が生まれたのだろう。所蔵和漢書の中にはその天目山荘旧蔵のものもあるという。詳しくは本誌6月号で萱場さんが書いて下さることになっている。「我は日本一の蔵書家なり」と称していた天目山荘については、故八木福次郎も興味を持ち「奇人・天目山荘」(『古本薀蓄』所載)に書いているが、今回新たな事実も判明しているのでご期待頂きたい。
 漱石の「文鳥」だが、新聞記事では「大阪朝日新聞」に明治41(1908)年6月に9回にわたって連載されたとあるが、私蔵の「ホトトギス」明治41年10月号後半の小説欄にも河東碧梧桐や野上弥生子など6人と並んでトップに掲載されている。朝日新聞社社員として発表した作品を4か月後とは言え別の雑誌に載せることが許される筈もなく、別の作品かと思ったが、これは調べるとすぐに同じものだと分かった。しかし、珍しいケースだろう。「文鳥」は明治43年3月刊行の『四篇』(春陽堂)のトップに収められている(縮刷版では大正4年『彼岸過迄四篇』)。いわば自信作であるわけだが、他の作品の多くが大阪と東京の朝日新聞に同時掲載されているのに「文鳥」は大阪版だけだった。高浜虚子宛漱石書簡でも漱石から「ホトトギス」への掲載を望んでいることが分かる。荒正人『漱石研究年表』では、明治41年7月1日、虚子宛書簡を引用しながら「転載の件については『大阪朝日新聞』の許可、または、『東京朝日新聞』で掲載する意思があるかないかを確かめてからと二通りに推測される」と書いている。「ホトトギス」では小説への原稿料支払はなく、漱石だけ1頁1円を払っていたというが、「文鳥」はどうだったろうか。転載の事情は今も詳しい事は分からないようだ。『漱石研究年表』によれば、同年2月15日、東京朝日新聞主催で講演した「創作家の態度」は筆記に手を入れて、同年4月号「ホトトギス」に掲載されたが、3月24日の虚子宛書簡を引用した後に「『創作家の態度』は『大阪朝日新聞』にだけ掲載された」とある。大阪朝日への掲載は確かめていないが、その事と関係があるのか、それとも前記7月1日虚子宛書簡の中の「文鳥以外に何か出来たら差上べく候へども覚束なく候」という漱石の事情によるのだろうか。
 ところで、偶然にも4月12日に、私が毎週日曜日に通っている結城市の曹洞宗乗国寺の座禅会と御詠歌(これには私は参加していない)の会で、亘理町に、震災犠牲者の鎮魂の旅に行こうという提案があった。図書館や郷土資料館には伺えないが、その土地の雰囲気を肌で感じたいと思い参加することにした。詳しくは書けないが、私は震災後半年した2011年10月に仙台の荒浜地区に行っている。5年たった同地名の亘理町荒浜も全く似た光景であった。津波に晒され民家再建が禁止されたどこまでも続く平らな土地でかつての賑わいはどこにもない。違いは海が見えない高い防潮堤が出来つつあること。現在の仙台荒浜も同様なのだろうか。古い街並みが残るというは、日本のような災害の多い所では稀有なのだと改めて思った。
 江戸時代のお城の様な常磐線亘理駅舎に郷土資料館があるのだが、日帰りの団体旅行では伺う時間がなかった。帰ってから電話で江戸清吉に関する参考資料の送付をお願いしたら実に親切に対応してくれ、昨年2,3月に開催された「東日本大震災と救出された資料」展の折の配布資料などを送って下さった。それによれば、2万点の江戸清吉コレクションの中で、文学者の原稿は240点、書簡類400点ほど。興味深いのは、原稿類は原則一作家一点という点である。それで240点、これは凄い。全て推敲や編集者による指示書があり、未発表のものは無いという。鴎外の「北条霞亭」冒頭の6枚があるのも驚きである。殆どが美術商か古書店で求めたもののようである。清吉は、昭和13年に52歳で亡くなっている。その当時の古書業界で積極的に作家の原稿など自筆資料を扱ったのは、大阪の柳屋くらいである。その目録「柳屋」からの購入の線が強いのではないだろうか。今秋同館で「江戸清吉クレクション」展の開催が予定されている。内容的に濃く、加えて二度の災害を乗り越えたコレクション、災害大国日本における資料保存という観点からも多くの注目を集めるであろう。
 亘理町から帰ってきた後の4月16日、神奈川近代文学館の漱石展に足を運んだ。「文鳥」原稿を見るためである。元の状態を知らないから、奈良文化財研究所で「真空凍結乾燥」処理をされたことによってどう変化したのか、一見他の原稿類と変わるところはない。津波の泥水を被った資料の復元とは思えない。展示は、「漱石山房」原稿用紙の橋口五葉デザイン原案と、その木版、および原稿用紙紙型の脇に置かれていた。「文鳥」が「漱石山房」原稿用紙を使用したものとして現存最も古いものであるからだ。「木版」の制作年が1908年頃とあり、「文鳥」も1908年。原稿用紙は春陽堂が印刷したというが、木版と鉛板制作のための紙型があるのはどうしてか。木版手刷りの漱石山房原稿用紙は見たことがないと八木書店古書出版部の八木乾二社長は言う。考えられるのは、原稿用紙を活版印刷にする以前、油性インキを使用するために木版で機械印刷した時期があったか、最初から五葉デザインを木版に起こして紙型を取り、鉛板を使って通常の活版印刷をしたかであろう。数枚とは言え、いろいろ想像を刺激する「文鳥」原稿である。しかし、コレクターがいたからこそ100年の時を越え伝えられてきたことは間違いない。
(樽見博)