瀬石の「道草」の自筆原稿 【紙魚の昔がたり20】
(八木) あの方(勝本清一郎氏)が言っておられたことですが、若い時は活字だとか肉筆の原稿を集めていたけれど、年をとって目が悪くなってくると、絵の方に移っていく。最後には陶器へいく。触覚で追求するようになったから、おれもこれで終わりだってことを言っておられました。
これもどなたから買ったのか忘れましたが、朝日新聞の関係の方から、夏目漱石の『道草』の原稿の揃いを買いました。これは、当時のお金で二万五千円で中山正善さんに買って頂きました。
(反町) 誰から買ったのかわかりませんか。
(八木) 覚えていないんです。朝日新聞の関係の方だったと思います。銀座へ行って買ったんですが、そのお家の記憶はあるんだけれども、名前がわからない。
(反町) 漱石の原稿は、御承知のように、明治四十年から全部「朝日新聞」に載るのですが、それで、社内には原稿が残るわけですね。その頃は呑気ですから、漱石は原稿を返してくれなんて言わない。で、自筆の原稿が、そっくりそのまま印刷部に残る。そうすると社内では、おれにくれ、おれにくれっていう人が多くって仕方がない。じゃあクジ引きで分けようってことで、印刷部の方でクジ引きで分けたんだそうです。もちろんタダです。これは本当の話です。私は上野精一さんからお聞きしました。原稿が社にきているんだけれども、済んでしまうと、下の連中がクジ引きで分ける。私がくれって言えばくれるんだけれども、なんだかそう言うのは悪いような気がして、控えていた。今になってみると、惜しいことをした、と言っておられました。あの方は立派な紳士でした。私がお近づきになったのは昭和四年からで、朝日新聞社の専務、それから社長になられましたが、元来大きな収集家でしたから、漱石の原稿を集めてほしいって頼まれましてね。ところが、その頃には、もう漱石の原稿はなかなか手に入らない。『道草』なんて、手に入ったのは奇跡的なことで、戦後の混乱時だったからですね。私は、まとまった原稿では「琴のそら音」だけ、あとは不完全のものを一つ二つ、上野さんへ納めてあります。今、八木さんが言われた朝日新聞の人というのも、クジが当たった人なんでしょうね。
(八木) 昭和二十八年の手帳に書いてあったんです。で、これを買ってきて、二階へ上がったところへ、中山さんがひょっこり、前触れなしにやってこられました。これを今買ってきたんですって言ったら、それはおれに分けろって言って、有無をいわさず、持って行かれたんです。奇跡的と言いますか、中山さんはあの通りの本好きですから、偶然の幸運にぶつかったわけですね。