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紙魚の昔がたり

『我楽多文庫』の原稿を二千円で 【紙魚の昔がたり19】

(八木) 勝本さんの話が出ましたので順序は前後しますが、尾崎紅葉の『我楽多文庫』の原本の話をしましょう。昭和十四年一月に、大阪日本橋の天牛書店の二階で、生田文庫という明治物の収集家の売り立て会がありました。その時に、尾崎紅葉が十九歳の時に、山田美妙・石橋思案等の友人たちと一緒に、肉筆の回覧雑誌をつくった。本当は一から八までのうち、一冊がなくなってしまって、現在は七冊だけ。天下一品です。それにつづく印刷非売本が八冊、これも非常な珍本で、揃いはほとんど出たことがない。そのあとが印刷公売本で全十六冊、これは複製の出来ておる珍本。最後が単に『文庫』という名前に変ってからのもので十一冊、と全部大揃いのものが一括で出ました。それが大変な呼び物だったんですが、これを私は、二千百一円という、妙な半端をつけた値で落札したんです。二番の人が二千百円だったと聞いていますが、うそか本当か、一円の違いで取れたんです。この時分の二千円といいますと、大した金でして、一寸した家が一軒買えただけの金なんです。これが勝本清一郎さんの注文でした。
 (反町) あの時はあれを、八木さんえらい値で落札したのにはビックリしました。勝本さんっていう人は、非常に熱心な収集家で、その上なかなか金持ちだったんですね。
 (八木) そうですね。鉄屋さんの息子さんで、お父さんのやっておられた仕事は弟さんに任せて、それで自分は好きな文学の道とか、美術の道を歩まれました。慶応の美学を出られた方なんですが、若い頃から作家生活に入られて、左翼の方にも関係されたようです。なかなかの艶福家で、いろんな話題の持ち主でした。私たちのところへこられていた時には、ドイツ人の奥さんと向こうで結婚されておりました。日常の生活は大変につつましくって、店に見える時でも、自動車なんか全然使われずに、電車で来られる。酒も煙草ものまない。晩年、身体が弱ってからは、息子さんが運転して、乗って来られました。慶応大学の病院で亡くなった。ガンだったんです。私の『日本古書通信』にも何回か寄稿して頂きました。