五島慶太と張り合う 【紙魚の昔がたり17】
(反町) グループ共同仕入を実行して成功したのは、桑名の松平家、有名な白河楽翁さんの家の本。ずいぶんの大口で、小石川のお屋敷にあったもの。その全部を五十万円か六十万円かで買った。それは、そっくりまとめて、天理の中山正善さんに売りました。すでにそういう実績があった。で、急に皆さんに呼びかけて、金を出し合う相談をしたが、すぐに二百五十万円はとてもまとまらない。仕入れの多い時代でしたから、それに備えて、誰も手元金の全部を出すわけに行かないんです。
(八木) そこへ私が飛び込んだんです。そういうふうに、反町さんの方でやっておられたのとは別に、松坂屋の私のところへ、直接に藤田家の人が話を持ち込んで来られた。久原文庫といったら有名ですから、ぜひ買いたい。いくらなんですかと聞いたら五百万円だっていう。当時の五百万円って大金。容易なことでない。そこで反町さんのところへ相談に行ったら、反町さんから、五島―浅倉屋ルートの話を聞きました。そこで私もグループに一枚加わって、その代り、足りないお金の工面は私が松坂屋に頼んでみましょうということで、飯田営業部長に頼んだ。そうしたら、その品を全部松坂屋で売るなら、金を出すように努力しようと、条件をつけられました。そこで反町さんに相談したら、お金さえ出してくれればそれでもいいだろう、ということで、こちらの腹は決まった。とにかく、京都へ行って現物を見ることにしました。その時分は、汽車の切符がなかなか手に入らないんです。ようやく二等切符を五、六枚用意しました。出発に先立って、私のところに藤田家から持ち込まれていた久原文庫の総目録の原本、一部分が火災で焼けこげていましたが、それを反町さんのところへ持って行った……。
(反町) これはいい物が来た。一まずこれで全体の、ザッとした評価をして見ようと、皆が集って目録で評価したわけです。それまでは話ばかりでしたが、今度は明細な目録がありますから。先代の井上さんを中心にして、みんなで協力して、一つ一つを評価して見ました。ずいぶん難しい本が多いし、それに大変な量かつ質でした。ごく大体で八百万円くらいになった、五百万円なら買っても大丈夫、と判明しました。そこで京都行きの手配をつけたんです。こうしてやっとメドがついたと思ったら、急に浅倉屋さんの方から、反町君、すみませんけども、五島さんから、自分の方でなんとか金の都合がつくから、前の話は取り消しだって言って来たんです、という話。これには私も驚いた。ずいぶん手前勝手の話。こっちはさんざん骨を折ったし、飯田さんもずいぶん無理をして下さった。松坂屋にしても、当時の五百万という大金を、右から左に貸してくれるわけではなく、その額の手形を貸してくれる。その手形を、われわれの手で割引いて、金を用意するという形なんです。やっとお金を工面したのに、突然に一方的にパタッと、話が変った、やめる、ではあんまりひどい。
それではこちらも覚悟をきめて、五島さんと対抗しても、ぜひ手に入れようと、私と八木さんが、直接藤田さんを訪問しました。藤田さんは、その時、石油だか船舶だか国家的な公社の総裁でね。その本部が、日比谷公園の先きの、その頃としては第一級の立派なビルの一つ。その最上階に総裁室がある。そこへ乗り込みました。じつはこういう話になっておるんですが、私たちはぜひお分け頂きたい。五百五十万円の現金で買いますから、ぜひ売って下さい、と直接交渉しました。藤田さんは六十前後の、背の高い、少し太り気味の堂々たる紳士でした。ものやわらかな応対ぶりで、話はよくわかった、けれども、五島は親戚で、少しくらいの金額の差で、五島がせっかく骨を折って金の工面をしたのを、断るわけには行かない。あんたたち、気の毒だけれども、我慢してほしいと、ものやわらかに言われました。こうなると一種のくらい負けで、それでもどうぞ、とは押せない。とうとう話は立ち消え、こちらは泣き寝入りになりました。