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紙魚の昔がたり

子規庵の子規草稿本を引出す 【紙魚の昔がたり15】

(反町) その話をモ少しして下さいな。子規庵の本をあなたが引出したことは、明治物の市場では、特筆すべき大きな事件ですから。どういう経路で……。
(八木) 御承知の通り、根岸の子規庵は戦災でやられて、焼けてしまいました。ですが庭に土蔵がございまして、中に入れてあった原稿類は、幸いに全部無事に助かったわけです。で、焼け跡に仮りの家をバラックで建てたんですが、何とかして庵を復興したい。しかし、「先立つもの」がない。その時分のことですから、子規門下の有力のみなさんにお願いするといっても、金は集まらない。やむを得ず、蔵書の一部分を処分して、その金で再建しようという、子規庵継承者の寒川鼠骨さんのご意向でしてね。私は寒川さんとは前から若干親しくしていただいておりました。それに上野松坂屋が子規庵に比較的近いもんですから、ちょいちょい来店されたし、で、その話が出ましたので、是非分けて下さいとお願いして、差しつかえないものを現金で分けて頂いて、展覧会で売ったわけです。今の『七草集』のほかに、『明治俳諧十六家集』『和光帖』『蕪村七部集』だとか、『分類俳句集』だとか、それ以外にも何点もありましたがね。その時、別に展観用に非売品を二十点ほど出品して頂いた。それを明治古典会の市会としての第一回目には、人気を盛り立てるために、特にお願いして、今度は買取りではなく、委託で売立させて頂いたんです。
(反町) 子規庵の売立は何点くらいありましたかね。
(八木) その記録がないんです。
(反町) 簡単な一枚ものの売立目録ができた記憶があるんですが、どうしても見つからない。子規というと、戦前では明治の名家の自筆本の中で一番高いものでした。非常に少なかった。それが、まとまって出たから、驚いた。
(八木) 数十種とだけ書いてありましたね。細目は書いてない。
(反町) われわれは売らないんだと聞かされていたら、急にそれが市場に出たので、ビックリした。たいへんな波紋でね。精一杯買いたいと思いましたけれども、全体の三分の一も買えない。その頃は和本の売れない時代で、私はいらない不動産なんかを売ったりして、資金をつくって買っていたんですが、それにしても思うようでないから、結局四分の一くらいしか買えなかった。あとは皆さんの手へ散ったのですが、とにかく市会はたいへんな緊張ぶりでした。非常にハッキリとあの市のことを記憶しています。その後二年ほど経ってから、寒川さんはまたお金が入用で、国立国会図書館へまとめて売られたようですね。
(八木) それは少し違うんです。寒川さんが売られたんではない。鼠骨さんが売られることに正岡家からクレームが出たんです。私のところへも正岡家から手紙が来て、今でも保存してありますがね。寒川さんとしては、子規庵を復興するために、善意で売られたわけです。しかし正岡家としては、勝手に売られては困る。別に寒川さんをどうこうと非難するわけじゃないけれども、という叮嚀なお手紙でした。結局分散してはまずいから、国立国会図書館の方へまとめて、正岡家から納めたのです。これには私は関係しませんでした。
(反町) それ以後、また子規庵復興のために金が入用になって、寒川さんは、子規自筆の『俳句分類』という厖大な枚数のものを、今度は一枚ずつ売られた。寄附金をもらって、その御礼として贈るという形でしたね。
(八木) その時かその前の時かに私も評価しているんです。私の手帖には、四十五冊、一万二〇〇〇枚で、六〇万円と書いてあります。
(反町) もうひとつ、やっぱり一枚のものにして売ったのは、何でしたっけ。
(八木) 『承露盤』ですね。あの時代だから、仕方なかったのでしょうね。