• twitter
  • facebook
紙魚の昔がたり

松坂屋古書部として大発展 【紙魚の昔がたり13】

(反町) 誰れもが金の一番ない時期でしたね。それというのは、二十一年の三月に、新円と旧円の切り替えでね。どんなにたくさん金を持っていても、一定限度以上は、政府は新円と取りかえてくれない。最高が五百円限度です。それで、あとは生活費を毎月いくらかずつ、家族の人数に応じて、新円を旧円と取換えてくれるだけ。何百万円の財産を持っていても現金はない。そういう時代だから、新聞に広告すると、現金で本を買ってくれるか、それじゃ売ろうということで、たちまち売り手が押しかけてきたわけでしょうね。
 (八木) 最初松坂屋と契約をする時に、君にまかせるけども、対外的には松坂屋が経営しているようにしなさい、ということでした。ですから、松坂屋の名で広告した。お客が売りにきたら、金がない、では通らない。そこで支配人のところに行って、実は大変好成績で仕入が多く、持ち金を使い切ったが、買った本は全部松坂屋に置いてある。今後仕入する分も、ここに置いておくから、九月一日の開店までの間、金を貸してくれと頼んで、はじめに、松坂屋から二万円借り出している。そのあとも、仕入が多くて、二十二日にはまた三万円借りていますね。合計五万円、一冊の本も売らずでの借り出しですから、当時店内では評判になりました。松坂屋始まって以来、一銭も売上をせずに金を借りたのは、八木だけだってことで……。しかし、このお金は十一月三十日に返済の約束でしたが、仕入れた本が、開店早々にドンドン売れましたから、十月の三十一日までに、二回に分けて完済しています。
 復員して帰って、上野の松坂屋をやらせてもらった時には、銀座の松坂屋にも古書部がなかったもんですから、銀座の方がいいと思って、銀座を先にと、営業部長の飯田さんに頼んだんです。松坂屋としては、銀座より上野の方を重く見ている。銀座は、いずれやるとすれば、君にやらすけれども、先に上野をやるようにということでした。幸いに上野が軌道にのって、仕入れもジャンジャンありますし、売上げもドンドン伸び、大いに信用を得ました。営業部の方も気をよくして、銀座の方でもやっていいということで、二十一年九月頃に、話が来ました。ただし、君は上野の本拠に残って、君の店員に銀座をやらせてくれということ。当時私の方の直接の店員は四人いたんですが、それらは上野の方の仕入と販売で全く手いっぱい。仕方ないもんですから、反町さんに、こういう話があるんだけども、誰か適当な人はいないですかと相談しましたら、山田朝一君(今の神田の山田書店主)がいいんじゃないか。目下、郷里の山口県に疎開したまま。当人は上京したがっているんだけども、職場がなくて困っているから、同君に話したらどうかということ。すぐに山田君のところへ手紙を出しました。直ちに上京して来まして、是非頼むという話でした。この人なら、一誠堂時代から、お互いによくわかっていますから、こちらも安心。来てもらうことに決定しました。で、一旦田舎に帰って、資金の都合をしてすぐまた出て来るという話でしたが、あの頃は誰も似たような事情で、資金が出来なかったらしい。何とか都合してくれと、田舎から依頼状が来ました。困った時には助け合うのは友人の情誼、じゃ何とかしましょうという返事をしましたら、とても喜んで、感激した手紙が来まして、今も保存しております。こうして、銀座の松坂屋の古書部は十一月に開店しました。
 (反町) あれは何年でしたかね。
 (八木) 二十一年です。私が上野松坂屋をやったのは、二十一年の八月です。ですから、銀座も間もなく開店したんです。至極順調に、スピーディーに運んでいます。
 さらにまた、二十二年の三月には、名古屋の本店でもやってほしいという話。で、名古屋の方は、私の代理に藤園堂の伊藤為之助さんと、大観堂の小室五郎さんに依頼しました。引き続いて静岡の松坂屋でもというので、ここには池田哲二君という人に、同じ条件で頼みました。ですから私が上野にいて、銀座と、名古屋と、静岡の間を、業務連絡にぐるぐる回っていたわけですね。連絡旅行中に、汽車の中で、現金入りのカバンを網棚に置いて、万引きされたこともありましたが。
 (反町) あの頃は、万引きや置き引きが多くて困りましたね。人心の退廃はひどいものでした。
 (八木) 四ケ所にそれぞれの責任者をお願いしてあるんですが、全部私の名義です。成績は四ケ所ともよかった。大阪の松坂屋には、以前から古書部があって、ここは地元の業者で、私より先輩の鹿田松雲堂さんと荒木伊兵衛さん、小関春雄さんその他四、五名でやっていましたが、成績が上がらない。で、私に引受けるようにと、松坂屋から持ちかけられましたが、この方は先輩に敬意を表して辞退しました。