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紙魚の昔がたり

統制で「古書通信」廃刊 【紙魚の昔がたり11】

(八木) 昭和二十一年の三月二十三日に博多着。二十四日に兵庫県明石の郷里に帰りました。ちょうどその頃は、農地解放といいまして、地主のもっていた田畠は、自作可能の分とある枠内の保有分だけを残して、その他の全部は、政府の命で耕作者に譲渡するように強制されました。私の応召する時に残して置いた金で、両親が田や山を買って置いたもんだから、田は大部分取られてしまって、わずかばかりのを耕作して食べて行かなければならない。それでは仕方がない。そこで、大阪・京都あたりの業界の様子を見に歩いた。その時に、京都の三条の京阪書房で、たまたま天理教の中山正善真柱さんにお会いしました。復員後すぐに、真柱さん、文求堂さん、反町さんとか井沢さんとか、木村先生とか、有力な後援者のところへ、アイサツ状を出しておいたんです。で、その時、真柱さんから「君、これからどうするんだ。何なら俺のところへ来ないか」って、お勧め下さったんですが、東京へ帰りたいですから、とお話して、間もなく東京へ出たわけです。
 (八木)(壮) 天理の養徳社と合併したっていうのは?
 (八木) それは戦争に行く前、出版社の統合があった時です。用紙配給の関係で、日本中の出版社が、みんな他の一社または二社と合併を強制された。で、『日本古書通信』も、警視庁から、「新聞之新聞」と合併しろと指示がきた。「新聞之新聞」と『日本古書通信』は性格が全く違うから、合併出来ないと頑張ったんですが、私の言うことを聞いてくれない。仕方なしに、明治大学の井沢先生が読売新聞の論説委員だったので、相談に行ったら、じゃおれが電話をかけてやるからと言って、警視庁詰のデスクに電話をかけてくれました。読売新聞のデスクというのは、警視庁じゃ顔がきくんですね。じきに効果があって、性質が違うんなら仕方ない。何か一つか二つ、小さな雑誌を買収しろっていう。形式だけでいいんだよ、これは廃刊しようとしてるからって、短歌雑誌社の名を教えてくれました。また古今書院の紹介で大坪草二郎の『あさひこ』も買収。
 そんなわけで『日本古書通信』は残った。それは第一回目の話。その後も段々切迫して、第二回、第三回の統合がつづく。結局、『日本古書通信』は休刊を余儀なくされました。六甲書房の方にも出版権がありましたが、その方は天理の養徳社と合併したんです。とにかく何かというと、統制々々で、エライ時代でした。