• twitter
  • facebook
紙魚の昔がたり

召集で中支・南支・北支と転戦 【紙魚の昔がたり10】

(八木) 太平洋戦争が、段々激しくなって昭和十九年の三月に召集されて、郷里に近い姫路の連隊に入る。もうこの頃は軍も資材が不足で、軍服が支給されない。私服のまま、朝鮮の平壌に送られました。検査の結果は乙種ですから、それまでに訓練は全然受けてない。平壌で教育を受けたんですが、教育が終わる頃に、四国の鯨部隊というのが中支にいて、勇敢すぎて大損害を受けて、人員が激減した。その補充として、平壌から中支にまわされました。そして中支から南支へ、そこからまた北支へ転々としました。

終戦を迎えたのが中支で、現地の百姓家に分散して泊まっていました。もちろん、陛下の終戦の放送なんて聞かない。一週間か十日過ぎてから知らされました。全員が兵器を返納して、後の指示を待つということになった。南京に集結して、部隊全部が捕虜。で、小学校が宿舎で、道路工事などをする。ちょうど監視する憲兵隊長の実家が、小学校のすぐそばで豆腐屋をやっていました。ある日、そこへ豆腐とかオカラを貰いに行きましたら、向うの憲兵が支那文の新聞を読んでいる。私は読めないが、写真に目をやったら、グーリックさんという、東京で和蘭大使館に一等書記官で勤務していた方の写真が戴っている。で、その憲兵に、俺、この人知っているって言ったら、そんなら会わせてやるって言うわけ。グーリックさんも本好きで、東京で何度もお会いし、原稿も書いてもらった間柄。ちょうどその時、南京の外交団の団長をしていられたのです。憲兵隊なんかも、一目も二目も置いているんですよ。その人と逢わせてもらった。その後は憲兵は、いろいろな便宜を図ってくれました。それというのも、結局『日本古書通信』を出していたお蔭です。文求堂さんの紹介で、何度も会っていました。そんなエピソードもありまして、結局部隊全部は、二十一年の三月に博多に帰還しました。

(八木〔荘〕) メタボリンの話というのは、平壌から戦地へ行く時ですか。

(八木) 入営した時、何故だか、私は時計を二つ持っていきました。いよいよ平壌を離れて南支へ行く時、異国で健康にあまり自信がなかったから、なるたけ身軽にした方がいいと思い、時計とか毛のシャツとか、いくらか金めのものは、古年兵に頼んで売ってもらって、その金でメタボリンを買った。それをポケットに入れておきましてね、行軍に弱って来ると、口へ入れたのです。栄養失調にもならずに、元気で帰って来られたひとつの大きな原因だと思っているんですがね。

(郡田) メタボリンって何ですか。

(八木) その頃はやった栄養剤です。結局、胃腸をやられて死ぬのが多かったんです。

(反町) 戦地の不自由さで、変なものを食べていたから。

(八木) 食料は内地から全然こないでしょう。で、現地で調達する。大豆などで補給したのです。が、不自由がちだから、何でも食べる。胃腸をやられて下痢をし、それがつづくと体力が衰えて、行軍に一緒についていけなくなる。
敵国の中で、一人で残れば殺されるから、自殺するんです。

(反町) ずい分ひどいものですね。

(八木) すべてが命がけです、戦地では。

 

「紙魚の昔がたり」公開済みタイトル一覧

 


関連書

m9784840634632反町茂雄編『紙魚の昔がたり』昭和篇

本コラムの全文をはじめ、弘文荘主・反町茂雄らが12人の古書店主から聞き出した古書業界の激動史。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2045

 

 

 

 

*その他反町茂雄の関連本はこちらから