「大阪古本通信」を譲り受ける 【紙魚の昔がたり4】
(八木) 昭和七年頃から、大阪にプリント刷の『大阪古本通信』という相場ニュースの小誌が出来まして、そこで東京のニュースが欲しいという話で、これも反町さんのご紹介で、君、送ってやったらどうかということで送りました。他にも二、三人に頼んであったようですが、私が最も多かったでしょう。
(反町) 富樫栄治という人でしたね。
(八木) ええ。こんな謄写版刷りの三頁物で、一部十銭、月三回発行です。
(反町) あなたのところでは、よくとってありますね。何年ですか。書いてありませんか。
(八木) 昭和七年三月一日が創刊号です。創刊号からの揃いは大阪の津田喜代獅さんから貰いました。
(反町) そのくらいの時期でしょうね。
(八木) 昭和七年ですね。そうこうしているうちに、昭和八年頃になりますと、「東京古本新聞」とか、「東京古本市場通信」とかいうようなものが出る動きが起こりまして、富樫さんも、ちょっと動揺されたようです。私は、こういうものの編集は、大阪よりむしろ東京の方がいいんじゃないかと考えて、反町さんにその話をしましたら、じゃあ富樫さんに会って相談なさい、ということになり、反町さんの紹介で大阪に行って、富樫さんに話しましたところ、快く判ってくれまして、自分は身を引き、仕事を私に譲ってくれました。
(反町) 富樫という人は大変感心な人でしてね。東京の方のニュースも取りたい、ニュースというのは主として古書相場のことですね。東京は全国の業界の中心ですから。手づるがないから、力を貸してもらえないか、という話がありました。そういう新しい仕事なら、お手伝いしましょうと言って、ニュースをはじめは私自身の手で送ってあげていたんです。彼は非常に喜んで、私を頼りにしていました。八木さんは、一誠堂でニュースの整理的なことをやってもらっていたし、そういうことが好きであることも判っていたので、店をやめたら、あんた、古本通信のような仕事をやったらどうですか、と話をしたら、それは面白い、やりたい、という話だった。
で、富樫君と競争になるとまずいから、仲良く助け合った方がいい、ということで、何かのついでの時に、一緒に大阪へ行った。そして富樫さんに八木さんを紹介して、どうか仲良く、東西両地のニュースを交換し合って、共存共栄されたらいいでしょう、とすすめました。富樫さんは、しばらく考えていましたが、そうですか、よくわかりました、それじゃ私がやめますって言う。私は正直のところ、びっくりしました。あなたはやめる必要はありませんよ。あなたが開拓なすった仕事で、今急におやめになったらお困りでしょう、と話しましたが、案外あっさりした人で、いや私は早晩こうなるだろうと思っておりました。八木さんは、私より大分お若いし、東京で始められるとすれば、遠からぬうちに、お客さんは、みんな八木さんの方に行くに違いない。わかりきっていることだから、私はやめます。何とかして食うくらい、やっていけますよ、とサッパリした態度でした。私はこのやめ方に強い印象を受けました。権利代とか、買収費とかいうものもなしに、無条件で譲ってくれた。それだけでなく、確か顧客の名簿さえも、八木さんにくれた筈です。その態度は非常に立派でした。
(八木) 私が当時一誠堂で貰っていた給料は、昭和八年一月に月給三十二円、ボーナスが四十円。十二月に辞めた時には、退職金を百五十円貰いました。昭和九年の一月から、『古書通信』を発行しました。
関連書
本コラムの全文をはじめ、弘文荘主・反町茂雄らが12人の古書店主から聞き出した古書業界の激動史。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2045