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社の歴史

古本修行に東京へ 【紙魚の昔がたり2】

(反町) 岩波文庫が出始めたのは、あなたが入った年ですか。

(八木) その年、入ってしばらくしてからです。

(反町) 面白い動機ですね。

(八木) 徴兵検査の結果が乙種合格、兵隊に行かなくてもよくなったわけです。そこで当時の福音舎の社長の塩倉さんに、新刊の小売屋はやれないから、出版をやりたい、それには先ず古本屋から勉強したい、東京に行きたいと思う、と話しました。ちょうどその時に、東京の稲垣書店にいた人が一人、福音舎に入ってきたんです。その人に聞きましたら、「東京に行ってやりたいんなら、一誠堂が一番いいよ。一誠堂には、いま、帝国大学を出た若い人が一人入って、隆々とやっているから、修業するのには、あそこが一番いいはずだ」と教えてくれました。そこで決心をして、主人の塩倉さんの添え状を貰いまして、一誠堂へ手紙を出しました。

(反町) ちょうど一誠堂がどんどん発展している盛りでしてね。昭和四年でしょうかね。人も次ぎ次ぎに入れていた時で、その手紙が来たわけです。商業学校を出たというし、手紙の文章も筋が通っている。その頃、商売の用事でしばしば関西に行ったもんですから、そのついでに、神戸の元町の福音舎さんを訪ねました。そんな縁で、八木さんに来て貰ったわけです。

(八木) 私が一誠堂に入った頃には、明治四十年・四十一年生まれの店員が五、六人いたんですよ。その時分ですから、前垂れをかけて着物。入店後、数ヶ月たちますと、毎日古本を自転車に積んで、売り込みに学校回りに行くのが、主な仕事でした。当時、先輩がすでに、東京大学とか明治大学とか、日比谷図書館とかをまわる担当になっていました。私は、郊外の大正大学とか駒沢大学とか、ああいった遠くの大学に、自転車で売り込みに行くのです。幸いに、じきにおなじみになり、引き立てて貰いまして、大正大学の中村康隆先生なんか、今日もなお、うちに来られます。現在は大正大学の学長さん。その時分は助手か副手だった。

(反町) その頃の一誠堂のやり方は、大きな学校や図書館へ、売り込み又は御用聞きに、一月に何回かずつ、店員を伺わせるやり方でした。年長といっても二十歳・二十一歳ぐらいですが、それぞれ担当をきめて、主な大学や図書館へ出かける。東京大学は小島君とか、今の山田書店の山田朝一さんは高等師範、今の筑波大学ですね。あの人は高等師範と東京外国語学校(現・東京外国語大学)などが担当でした。

(八木) 自転車の後ろに古本をつけてね。その頃、店にはいい本がたくさん入ったんですよ。図書館の予算は決まっていて余裕がない。ですから、研究室を片っ端から回ったわけです。大正大学には、宗教学研究室とか、仏教学研究室とか、国文学研究室とか、漢文学研究室とか、研究室がたくさんありました。中村康隆先生に、これが出たから買って下さいと頼むわけ。そこで売れないと、また東京大学の宗教学研究室とか、売れそうなところを紹介して貰って、ぐるぐる回るわけです。あっちこっちの大学の研究室をずいぶんまわりました。そんなふうにして一誠堂で約五年、昭和八年の十二月まで、勤めさせていただきまして、その十二月に御主人の了解を得てやめる。反町さんはその前に、確か昭和七年におやめになりましたですね。

(反町) 八木さんはその頃、学校方面の開拓を、大変よくやってくれましてね。新しく来て、新しい方面を開拓したんです。当時の店員の名は、姓で呼ばない。名の上の一字にドンをつける。八木敏夫さんはトシドン、山田朝一さんはアサドンでした。私はトシドン、トシドンっていって引き立てたもんですから、みんなが、反町さん(私だけは姓で呼ばれました)は、自分で神戸から連れてきたものだから、トシドンばかり贔屓するって、陰口をきかれたくらいでした。

 

「紙魚の昔がたり」公開済みタイトル一覧

 


関連書

m9784840634632反町茂雄編『紙魚の昔がたり』昭和篇

本コラムの全文をはじめ、弘文荘主・反町茂雄らが12人の古書店主から聞き出した古書業界の激動史。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2045

 

 

 

 

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