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創業者 八木敏夫物語

本の世界に60年余【創業者 八木敏夫物語7】

toshi7「ハイド・コレクション」のせりが昭和63年秋、ニューヨークで行われた。コレクションは、日本の優れた古典籍である。
日本から多くの古書籍商が参加していた。八木書店は壮一社長、87歳の反町茂雄の元気な顔も見えた。いや、このコレクションは、彼にとって縁の深いものなのだ。
一風会の旅行 ドナルド・ハイドはアメリカの富豪で有名なコレクターだった。昭和37年、日本にきた彼は「複製」でない日本の古い書物を見せた反町に驚嘆した。千二百年も連綿と書物が残っている――それを日本では古書籍商が扱っている、と。この国は世界史上しばしば見られる「敵の文化」を徹底的に破壊しつくすという経験を持たないのだ。ハイドは反町に相談した。「いいコレクションをアメリカに置きたい」。反町は優れた古い書物の組み合わせを外国に置くのは、日本文化を知ってもらうために大変いいことだ、と思っている。「一通りのものが出来るまでに、収集に10年はかかりますよ」。しかしハイドは5年後に死に、一部がハーバード大学のホック・ミュージアムに寄付されたあと、この日を迎えたのだ。反町は四半世紀を経て愛着ある本に再会した。日本に帰ってくるのもうれしい。しかし「出来れば立派なコレクションに完成させ、アメリカに残しておきたかった」。
オークションは朝9時から2時間足らずで終わり、クリスティーズがこの日設定した標準価格は2億円なのに現実の売り上げは7億円となった。八木書店は東京の下見会でのお目当てだった富岡本『枕草子』を32万ドルで落とした。「あれもです」と壮一は日本の父・敏失に連絡した。歌麿の絵入り『虫えらみ』。50余年前、古書店員時代の父は“高買いのトシドン”と言われた。その父が「いいものを仕入れた」とほめられたのが、この美しい絵本だったのだ。
会場の反町と八木二世は「いい本がたくさん出ましたね」と話し合った。ニ人は“勉強仲間”だ。かって反町は同人誌『玉屑』を作って八木の父敏夫らと勉強した。彼はその後も、「文車の会」で仲間と勉強を続け、後輩に惜しみなく知識を伝え続ける。八木の二世壮一社長・朗専務兄弟が今この会で勉強する。壮一が世話人の分科会はいま『今昔物語』を影印本で研究している。
八木敏夫は事業メーンの書店社長を、創業50年になった5年前、長男に譲った。個性的な店主たちにより、神田古書店街は生き残り発展してきた。時代が移って――町は猛烈な地上げ攻勢に襲われている。書店主の結束は固い。「地上げには残った。次の心配は相続の問題ですね」と八木父子は話し合う。古書の街にビルが増えた。ビルのなかに事務所だけを置き、目録で全国の書斎に御用聞き――そうした形が古書店の主流になっていくのかな、と話し合う。
八木書店の前が東京古書会館。毎日「市」が立ち、金曜日には敏夫会長の姿がある。この日は得意の「明治もの」の日なのだ。今でも明治ものを扱う仲間たちの「明治古典会」の会員だし、全国のデパートでの特価本を扱う、「第二出版販売」会社社長など現役として活動する。美術の市場にも顔を出す。
目下の最大の関心事は出版を続けている「正倉院古文書影印集成」だ。奈良時代研究に欠かせないこの資料の影印複製は、活字に望めない古代の息吹を研究者に伝えてくれるだろうか……30年あれば完成する。
昭和2年、岩波文庫の出現で神戸の書店員八木は将来を決めた。そして本の世界に60余年、だから文庫も60余年。岩波文庫のことも報告する。創刊60年で刊行された総冊数は約3億冊になった(『岩波文庫総目録』昭和62年)。60年間で最も読まれたもの(1)『ソクラテスの弁明・クリトン』(2)『坊っちゃん』(3)『共産党宣言』(4)『善の研究』(5)『エミール』上……。 八木少年が手にとった『ソクラテス……』と『藤村詩抄』(8位)が、この時から生き続け愛読されている。

※この物語は、朝日新聞社刊『昭和にんげん3』(平成元年8月刊(坂田允孝執筆)、初出は「朝日新聞」夕刊・昭和63年連載)より転載させていただきました。