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創業者 八木敏夫物語

逸品誇る記念品目録【創業者 八木敏夫物語5】

toshi5 『八木書店古書目録』とか『八木書店新蒐百撰』とかの目録は「こんな本の在庫があります」という案内だ。通信販売の時代というが、古書業界では明治時代からやっている。世界の古書業界で、販売の方法は店頭と通販に大別されるが、信用のある有力店なら図書館、収集家と通販の目録を通じての営業が可能なのだ。
優れた古書店の目録。愛書家には実に待ち遠しい。「人よりも早く」と届くのが待てない。戦後はロンドン・タイムズ東京支社長になっていた、あのホーレーは店が新しい目録を出す朝、車の運転手を書店前に待機させて先陣争い……そんな客を満足させ「さすが」とうならせるものを出したい。目録は店の実力を示す尺度である。
昭和59年正月、創業50年を記念した八木書店の『古書目録』は380ページとなった。昭和9年「古書通信」社と古書業六甲書房を神田で創業、上野・松坂屋古書部を経て「この50年を記念して、いささか蒐め得ました品々をまとめて」の目録だ。このトップに掲載されたのは、きりしたん版『落葉集』である。記念目録をかざるべく、がんばって手にいれた。慶長3年(1598年)イエズス会長崎で刊行されたこの辞書の完本は、大英博物館など世界に3冊、日本になかったものだ。「いささか蒐め得た」は「いささかの得意」でもある。後に重要文化財に指定された。
古書目録は大切にされていい。出たばかりの目録が愛書家のものであれば、年月を経たそれは時の重要な書物の存在を確認し、古書価の変遷は文化史の一面となる。「戦前の日本は国粋・日本的な古書の値段がよく、戦争直後は極端にアメリカ的なものがよかった」と八木敏夫はいう。古書店の勉強会「文車の会」がまとめた『日本古書目録年表』によると終戦の年、昭和20年の大混乱時代に目録をだしたのは三重・上野の沖森書店と反町らのグループ「新興古書会」による2点のみ。対日平和条約が成立、生活が安定した29年に160種と、昭和12年ころの数字に戻る。そして、1万円札登場の33年には200種、9000ページを超した。
大きな古書の即売展は目録販売と店頭販売を兼ねたようなものだ。業界の歴史に残る37、8年の「文車の会」主催の「白木屋古書展」は八木の企画力が大いに発揮された。戦後盛んだった百貨店での古書展は、物が豊富になって会場がなくなった。10年の低迷を経てのこの会は、開店30分で人場制限をする大盛況となった。「あんないいものが一堂に集まることはもうないでしょう」。「文車の会」の勉強仲問が負けまいと出品を競ったのだ。
負けられない、といえば父敏夫(80)、長男壮一(50)、次男朗(49)父子3人でアツくなった話。昭和63年暮れ、東京古典会の市に『村松物語絵巻』が出た。12巻、極彩色絵百八図。江戸浮世絵興隆の基ともいわれる江戸初期の画家岩佐又兵衛。大正末期から行方がわからなかった又兵衛風絵巻の、戦後最大級の出現ではないか……。「逸品だ。欲しい」。強敵がいそうで、何回も人札額を書き直した。落としたときはすごい額になっていた。八木書店最近の目録『新蒐百撰』に載っている。1億2千万円で売りたいと。
百万塔及び自心印陀羅尼経(現存世界最古の印刷) 「これをみるとオヤジは買ってしまうようです」と壮一がいうのは『百万塔陀羅尼経』だ。奈良時代の女帝、称徳天皇が仲麻呂の乱平定後、天下太平を願ってお経を作り、高さ20余センチの木製小塔百万基に入れて法隆寺などに奉納した。「絵画は高いのにね。これは世界最古の印刷物ですよ。かわいそうでね」と敏夫はいう。自分の手にした陀羅尼から、お経がひとつずつのでなく、一連印刷したものを一度に刷って切り分けていたことを発見した思い出もある。
他店の目録も色々な工ピソードを秘めているに違いない。