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創業者 八木敏夫物語

高買いトシドン【創業者 八木敏夫物語2】

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神保町を中心に、神田書店街は出来てきた。それは「人類がはじめて経験する巨大な図書館ともいえる」(脇村義太郎『東西書肆街考』昭和54年・岩波新書)。書物の大きな同業者町は世界にあるけれど、集中度、総合性で比較にならぬ世界一の”本のコンビナート”というわけだ。草分けの店の一つに「有史閣」がある。古本店からはじまった店は「有斐閣」と名が変わり大出版社となって昭和52年に創業百年を祝った。町の歴史はそう古くはないのだ。
さて昭和4年の春、初めての神田にやってきた21歳の八木敏夫は、古書店「一誠堂」に入った。関東大震災で神田書店街は全滅していた。
それは古書、古記録を中心に計り知れない文化的損失であった。一誠堂は焼け跡にテントを張り、本に飢えた人を集めた。店は発展していた。その活気を八木は感じた。
店員は「ドン」で呼ぱれる。いま荷風本で有名なトンガリ帽子の8階ビル「山田書店」を持つ山田朝一は「アサドン」、だから八木は「トシドン」である。朝7時起床。掃除。前垂れに着物。前日に買った本に小売値が付けられ、店の棚に納まる。この、本の仕入れは新米のトシドンにはもう少し先のことだけれども。そして古本を自転車に積んで、売り込みと御用聞きの学校・図書館回りだ。アサドンは高師、外語とか、東大はナオドンとか。
昭和11年六甲書房の前で 後輩のトシドンは、白山通りの坂道をこいで郊外の学校に行く。新しい学校を開拓した。今も本を通じての交わりを持つ芝・増上寺の中村康隆法主は大正大学の助手だった。「これが人りました。矢吹先生に買ってもらって下さい」と西域関係の本を持っ行った。今でも八木のふろしきで本を包む技術は立派だ。「すごいねぇ」と岩波の会長だった小林勇を感心させた。
さて、夜10時に閉店すると、その日購入した本を持ち寄って値踏みをする。これは番頭格の反町茂雄先輩の仕事。トシドンも、反町に教わりながら雑本から、次第に古本の仕入れを覚えていったが、値踏みの時はヒヤヒヤだ。
「高買いのトシドン」のアダナがついたのだ。古本市場に出しても利益を出すよう仕入れるのだが「客に説明されると、つい納得して」少し高く買ってきてしまうらしい。だからといってトシドン仕人れの本は高く売る、ということはない。購人価格とは無関係に、反町が1冊1冊を値踏み、業界相場に評価して値を付ける。それを基準に売値がつけられる—そういうやリかただった。
同時に「市」で仕人れた本全部の落丁繰り。終わると深夜12時。お茶になっておふろにでかけ……。
さらに勉強は続く。反町は一誠堂従業員を中心に古書研究のための「玉屑会」(ぎよくせつかい)を作った。ここに研究を発表させ、機関誌『玉屑』を発行して成果を載せる。昭和5年11月の第1号にトシドンは「解題書類に就いて」の論文を発表している。店員になって1年半だ。「深夜まで、休みには図書館でがんばりました。これがどれほど後々までの力になっているか計り知れません」
店頭売りより積極的な売り込みの時代だった。全国に図書館、学校がどんどん出来たのだ。トシドンも朝鮮にまで出かけたが、それは隠密で出かけたはずの一誠堂と近くの古本店員が、台湾の学校で鉢合わせをするくらいだった。
「売り込みには、早くニュースを知らねばなりません。どこの学校に予算が出た、ナニ先生が転勤したとか」。トシドンの発案で自身が情報係を兼任することになった。官報、東京中の新聞とその地方版をスクラップして反町に提出する。大きくて無駄にもなる目録に代えて、新設図書館には基本図書目録、農学校には動植物だけのと、薄い分類別目録を発案したのも八木だった。
次第に次のステップとなる仕事を手掛けていたのだ