千首和歌が仙洞官庫に永久保存! 文芸活動にいそしむ綱吉の側用人、柳沢吉保
楽只堂年録 第5【史料纂集古記録編182回配本】
徳川第5代将軍綱吉の側用人、柳沢吉保(1658-1714)の公用日記、刊行!
本巻には、宝永元年(1704)正月から同2年3月までを収録しました。吉保47歳から48歳の年にあたります。
2月、吉保継嗣吉里が酒井忠挙女頼子と婚姻。吉里の新居では「松に多春を契る」題で新婚を寿ぐ歌会が催されました。私的な歌会ながら、当時の武家社会での文芸活動の実際が知られます。
またこの頃、吉保・吉里父子が霊元上皇に献上した「千首和歌」が、仙洞官庫に永久保存される栄誉を担います。父子は多大な礼物を献上しますが、霊元上皇の柳沢家ご愛顧が窺える一件でした。
3月13日、元禄17年は宝永元年になります。同じ頃、吉保側室町子の「千首和歌」も仙洞官庫に永久保存されることになりました。結果的に見て、この頃が柳沢家の文芸活動の最盛期であったと言えるようです。
ただ、悲しいこともありました。4月12日、綱吉息女で、紀伊徳川綱教室であった鶴姫が28歳の若さで逝去してしまったことです。吉保は我が娘のように日々配慮し続けた姫の逝去に、落胆をぬぐえませんでした。
12月には、吉保はお抱えの学者に命じ、源義経筆の『素書』(兵法書)に注釈作業をなさせ、吉保自身で序・跋を加え『素書国字解』と名付け、息子の吉里に与えました。武家の正統を証するあかしの一つと考えてのことだったようです。
そしていよいよ同月。継嗣がなかった綱吉は、吉保の尽力を得て、ついに甲府宰相綱豊を継嗣に決定します。この尽力への恩賞として甲斐国を賜った吉保は、15万石(内高22万余石)に増祿します。川越城は秋元喬知に明け渡し、綱豊からの甲府城の受け取りは、宝永2年3月のことでした。
口絵に収録した「甲斐国絵図」は、幕府の命令で甲府城主徳川綱豊が作成したものの控えです。江戸時代の甲斐国の景観を知る基本資料となっています。